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「もう、知事ったらすっかり大人のいい男になっちゃったから、分からなかったわよ」



「そうか? 老けただけさ。女将さんは相変わらず綺麗ですぐに分かった」



「やだわ、お上手。ま、知事も昔から男前ではあったけどね。前はかわいい感じだったから。食べちゃいたいくらいに。ブギャハハハハハッ!」



 スプリングがいかれ、中綿の飛び出たソファに立膝で座り、『女将さん』は野生的な笑い声を上げた。つられて、彼女とはテーブルを挟んで反対側のソファに座る山本も低く控え目に笑う。


『女将さん』が営む『ナオミ』という店名の小さなキャバレーは、歓楽街の外れの角地にあり、陽当たりが悪く、薄暗かった。調度品の類いは、アール・デコ風の骨董品で統一されており、オレンジ色のキノコ型ランプが暗く湿った店内を柔らかく照らしていた。


 店主は、他のこの街の住人同様、営業時間外にも関わらず、山本の訪問を歓迎していた。明智のことは、山本のおまけ程度にしか見ていないようだったが、今だけはおまけで十分だと明智は断言できる。


 二つしかないテーブル席の一つに案内され、山本の隣に腰を下ろしてはみたものの、明智は未だ『女将さん』の姿が網膜に映った瞬間に受けた、頭を金槌で強く殴られたような衝撃から立ち直れずにいる。


 楽しげに談笑している『女将さん』をそっと盗み見る。


 派手な花柄のワンピース姿に、モガ風のおかっぱ頭がよく似合っている。年の頃は50歳前後だろうか。店全体が薄暗い上に、化粧が濃いせいで判然としないが、白粉をめり込ませ、真っ青なアイシャドウや桃色のチークを塗りたくったキメの荒い肌から、そんなものだろうと見積もった。


 山本に連れられて、10数軒の風俗店やキャバレーをまわるうち、厚化粧の中年女や逆に眉のない妖怪じみたすっぴんに、いい加減目が慣れ始めていた頃、現れたのが『女将さん』だった。


『女将さん』の海に住まう軟体動物を思い起こさせる真っ赤な唇の上や、胡桃くるみくらいなら容易に噛み砕きそうな頑丈な顎の下辺りには、青々とした髭の剃り跡が薄っすら見えている。

 水商売に携わる者特有の軽妙洒脱で、あの手この手で相手を喜ばせる技に長けた台詞を紡ぐ声は、とびきりの重低音だ。



「しかし、『新宿を守る姫』ねえ。あたしみたいなババアならともかく、若い女でそんなに力を持ってるのなんていないわよ」


 林檎くらい、いとも簡単に握り潰しそうなごつく、逞しい手がテーブルの上にある湯呑みを青髭の生えた口元に運ぶ。立派な喉仏が上下し、茶を喉の奥へと押し流す。


 男、だ。


 化粧をし、ワンピースを着、女の髪型をし、女言葉で話しているが、『女将さん』はどっからどう見ても男だった。彼女(?)のような存在については、昔、精神神経学の本で読んだことがあり、知っていたが、間近で見るのはこれが初めてだった。


 見た目の印象の強さに圧倒されたのは勿論、押しが強く、開けっぴろげな『女将さん』に目をつけられたらどうしようと思うと気が気でなく、明智は借りてきた猫状態で沈黙していた。

 いざ彼女(?)の興味が自分に向いた時、どう対応すべきかの想定問答集を脳内に作成することが、急務であるにも関わらず、気の利いた応答は何一つ思いつかなかった。



「皆さんも、そう仰ってました。やはり、街を守るにはそれなりの力が必要ですからね」



「ここに集まる、どこの馬の骨かも分からない流れ者や脛に傷のある連中を纏めるなんて、若いだけの小娘には無理よ」



 山本は呆然としている明智をよそに、『女将さん』と平然と言葉を交わしていた。

 その事態も明智をさらなる混乱に陥れていた。

 話し振りからして、ここに辿り着くまでに訪ねた怪しげな店の経営者や従業員たち同様、彼女(?)もまた、山本とは旧知の仲のようだ。新宿の中でも、格別にいかがわしく淫らな地域に店を構える連中の殆どに慕われているなんて、一体全体、どんな人生を送ってきたらそうなるのか。元々異質だとは感じていたが、さらに山本という男が遠い存在に感じられ、そら恐ろしくなった。



「あ、でも、『姫』ならいるわね。確かに、ある意味今、一番勢いのある子よ」



 明智のことなんて見向きもせず、茶を飲み干した後の空の湯呑みを弄っていた『女将さん』は不意に何か閃いたようだった。すかさず、山本が身を乗り出して、その人物の名前と居場所を教えてくれと頼んだ。

 彼女(?)はカウンターからメモ用紙を持ち出し、鉛筆で走り書きをすると、彼の背広の内ポケットに丸めて押し込んだ。



「ふふ、相変わらずいい体ね」



 誘うような手つきで胸筋をつうっと撫でられ、耳元で囁かれても、山本は平然としていた。



「ありがとうございます。今度また飲みに伺います」



 敏腕営業マンも尻尾を巻いて逃げ出す爽やかな笑顔で『女将さん』に礼を言うと、さっさと立ち上がり、自分の分の湯呑みをカウンターに運び出す。明智も慌ててその後を追った。こんなところに一人で置き去りにされるなんて、真っ平だ。



「あらあら、あたしが片付けておくからいいのに。それにしても、仕事熱心なのは相変わらずね」



 恐縮しながら、『女将さん』は店先まで見送ってくれた。やっと、ナオミから脱出でき、明智は酷く安堵した。存在を丸っ切り無視されていた屈辱なんて、今はどうでも良かった。





「なるほど。ムーラン・ルージュの看板女優か。確かに、この街の姫ではあるな」



『女将さん』から貰ったメモを見ながら、山本は裏通りを抜け、甲州街道を目指して歩き始めた。その背中に、明智はずっと気になっていたことを尋ねた。



「なあ、さっきの『女将さん』って、結局男なのか? 女なのか?」



 無番地一の常識人は振り返らず、歩きながらこともなげに応じた。



「れっきとした女性だよ」



「髭が生えていたぞ。声だって、俺なんかよりずっと低かった」



 ついでに言えば、手もごつくて雄々しかったし、がたいも近藤並みに良かった。立派過ぎる喉仏もあった。



「女だよ、心は。それでいいじゃないか。見た目なんてどうでもいい」



 山本が立ち止まり、振り返った。凛々しい眉が八の字に下がっており、静かな知性の宿る目には呆れの色が滲んでいて、明智はぎくりとさせられた。自分がとても子供っぽく、次元の低い話をしていると、思い知らされ、途端に恥ずかしくなる。

 いつぞやの饅頭事件の時も同じだったが、山本は時折、自覚なく、相手の間違いや未熟さを露呈させてしまう程の正し過ぎる言動を取ってしまうことがあった。


 現に明智もいたたまれなくなり、殊勝に頭を下げた。



「……変なことを聞いて済まなかった」



「俺に聞く分には構わないよ。本人に聞かれなければ」



 山本は同期の謝罪を軽く受け流した。そして、再び前を向こうとしたので、慌ててもう一つの疑問を投げかける。どちらかといえば、こっちの方がより興味のある事項だった。



「どういう知り合いなんだ? 『女将さん』以外もみんな貴様と旧知の仲に見えたが。昔からこの辺りで、よく遊んでいるのか?」



 切れ長の奥二重の瞳が細められ、虎がおわす街を見渡すように遠くを見やった。



「みんな俺を育ててくれた恩人だよ」



 全くもって、意味が分からなかった。

 山本は歓楽街で働いていたホステスの息子なのだろうか。或いは、諜報員になる前は、自身がボーイとして、ああいういかがわしい店で働いていたのだろうか。諜報員同士、互いの過去を詮索するのはマナー違反なので、詳しく追及できないのがもどかしい。明智の貧困な想像力では、その程度のことくらいしか、読み取れるものはなかった。



 山本、やっぱり貴様は俺たちとは何かが違う。けれども、その『何か』の正体が分からない。貴様は一体何者なんだ?



 颯爽と歩く後ろ姿に、明智は胸の内でそう語りかけた。

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