11

 午後7時。テロリストが政府に突きつけた交渉期限ちょうどに、東京府民に愛されるレモンイエローの電車は、車両の後部が大破し、普通に走行していること自体が奇跡のような悲惨な状態で東横百貨店3階にあるホームに到着した。因みに、明智たちが赤坂見附から乗車していた車両は、追突の衝撃で機械が故障したのもあり、事故現場に乗り捨ててきた。

 事故現場と渋谷駅間にある唯一の途中駅、神宮前駅に待機していた警官隊に一通りの説明はしたものの、本部のある渋谷駅に行ってくれと指示された。


 渋谷駅ホームでは大勢の制服警官や私服刑事たちが待ち構えており、事情説明のため、真っ先に下車した明智を取り囲んだ。

 部下らしき私服刑事数人を引き連れ、モーゼの如く、人の海を切り開き現れたのが、警視庁特別高等部特別高等一課の御子柴課長であった。


 40歳前後くらいの御子柴課長は、警察官より大蔵官僚の方が似合いそうな色白で知的な顔立ちをした長身痩せ型の紳士で、銀縁の眼鏡をかけていた。明智は一瞬、10数年後の自分に対面した気分になったが、こちらを品定めするように注がれた、爬虫類じみた人間的な温かみの一切ない視線に震撼し、考えを改めた。あの目と同じ目を、諜報員になってから何度か見たことがある。ああいう目をした人間の共通項は2つ。

 1つは人殺しであり、そしてもう1つはそれを何とも思っていないこと。



「あなたが霧山中尉ですか? 随分派手にやってくれましたね。人質を守り抜き、テロリストを制圧して下さったことは見事ですが、運が良かったとしか言いようがないですね」



 平坦な調子で繰り出される台詞は、氷柱のように凍てついた鋭利さを持っていた。怖気づく本能を隠し、平静を装う。



「初めまして。東京憲兵隊の霧山です。確かに少々荒いやり方をしましたが、勝算は確実にありました」



 御子柴課長の細く薄い眉が持ち上がった。



「勝算があった? 笑わせるなあ。爆弾を積んでいる電車に追突しておいて、勝算があったとは、陸軍はどういう教育をしているのか。門外漢の私が言うのも癪だろうけど、一臣民として言わせて頂きます。勢いと根性論で戦争は勝てない。あなたのような方に国防を任せるのは不安だ」



 課長の後ろでは、完全武装の警官隊が電車内に雪崩れ込み、テロリスト3人を連行していた。と言っても、自立歩行ができるのは一人きりだ。依然眠ったままの2人は明智たちが施した急ごしらえの拘束措置をされたまま、数人がかりで電車内から担ぎ出されていた。



「そうですね。仰る通りです。でも、最初から爆弾なんて積まれていなかったとしたら、どうでしょうね。制圧後、車内を検索しましたが、爆発物の類は出てきませんでした」



 ふんっ、と特高刑事は明智の挑発を鼻で笑った。



「それも結果論だ。それとも何か根拠があって、あなたは車内に爆弾がないと思ったのですか?」



 根拠ならある。松田から届いた『突っ込め』という荒っぽいメッセージで気づいた。自分の身が何よりも大事な彼が、運が悪ければ爆弾が暴発し、自分も爆死しかねない指示を出すはずがない。『突っ込め』は、要は荒いことをしても、爆発の恐れはないから思い切り来いということを暗喩している。

 でも、それは言えない。言えないので、適当にうそぶいた。



「憲兵の勘、ですかね」



「馬鹿か?」



 間髪入れず、御子柴課長は吐き捨てると、踵を返し、登場した時と同じように、警官の海を割って歩き去って行った。

 これ以上、夢見がちな青年将校と話を続けても無駄だと判断したに違いない。明智にとっても、それはありがたい決断だった。背筋を伝う悪寒に耐えるのも楽ではないのだ。

 彼の去った後には、品の良い芳香が微かに残っていた。きっと、高級な香水をつけているのだろう。何度洗っても、拭っても消えぬ、生臭い鉄の臭いを消すために。


 電車からは、テロリストに続いて人質の面々と近藤が順に降り始めていた。まず、事故現場からここまで電車を運転してきた運転手、次に、ある意味今回の大活劇の元凶であるスパイ疑惑のかけられた雑誌記者鳴海眞五郎。続いて、外務省の2人組、車掌、最後に松田と近藤だった。


 これから被害者の面々も警察署で事情聴取だ。今夜は長い夜になりそうだった。無論、憲兵中尉ということになっている明智とその部下の近藤でも、免除とはならないだろう。所長と桐原大佐が裏工作に尽力してくれるのを祈るばかりだ。


 ふと、警官に付き添われて歩く外務省の2人組と目が合った。女が何か言いたげに小首を傾げたので、明智は無言で首肯した。すると彼女は、不愉快そうに眉を顰め、笠原という男スパイの背広の裾を引っ張り、彼が頷いたのが見えた。



 これで良い。元々、最終的に彼らの手に戻るものなのだ。誰が回収したかなんて、どうでも良い。



 明智も制服警官に案内され、近藤と共に警察車両に乗せられ、最寄りの警察署に連れて行かれた。皇国共済組合基金ビルと良い勝負の薄暗く、灰色の気が滅入る配色の待合室に通されたが、案内の警官が出て行き、靴音が遠ざかった途端、2人して待合室を出た。


 近藤と手分けをし、警察署の中を彷徨く。


 1つ下のフロアの男子便所から、外務省の男スパイが出てきた。警察署の庁舎内でトイレに行くだけなのに、通勤鞄を手に持っていた。中には鳴海のブリーフケースから回収した日独伊三国同盟締結に向けて作成された機密文書が入っている、と彼は思っているのだろう。



 誰が回収しても、どうでもいいが、できれば自分で回収したい、そんな想いを胸に、明智はほくそ笑んだ。偽物を摑まされた外務省の二人には悪い気もしたが、地下鉄の中で大恥をかかされた怨みは、これで帳消しにしてやろう。



 柱の影に身を隠し、男子便所を見張っていると、男スパイが出てきてから5分程後に、布製の肩がけ鞄にブリーフケースを携えた鳴海眞五郎が便所から出てきた。

 読み通りだ。いかにも重要書類が入ってそうなブリーフケースはダミー。本当に大事なものは肩がけ鞄の中だ。電車の追突騒動の時、ブリーフケースをうっちゃって肩がけ鞄を後生大事に抱えている姿を見、鳴海の姑息な偽装はとうに見破っていた。


 その証拠に、スパイ行為という重罪を犯しているにしても、運悪く予想以上の代償を払わせられた気の毒な雑誌記者にしては、丸眼鏡の向こうの目はぎらぎらとした光を放っていた。



 鳴海は意気揚々と廊下を端まで歩くと、人気のない非常階段を降り始めた。息を潜め、尾行すると、彼は踊り場で待ち伏せをしていた、誰かに愚痴を溢していた。



「こんなの聞いていない」とか「何で憲兵が介入してきたんだ」とかだ。



 相手は平謝りで、自分もこんなことになるとは思っていなかったと言い訳をしていた。



「とにかく頼んだよ、俺も命懸けなんだから」



 そう念を押し、鳴海は来た方向とは別方向に回り道をして立ち去って行った。



 書類サイズの分厚い封筒を脇に抱え、階段を上って来た人物を、明智はすれ違いざま、肩に手を置いて呼び止めた。


 驚愕し、飛び退いたその人物は、まだ20代半ばにやっとなるくらいの若い男だった。背広姿で、胸には職員用のバッジを付けている。彼の顔に明智は見覚えがあった。渋谷駅で御子柴課長に付き従って歩いていた本庁特高部の刑事の一人のはずだ。



「な……どうされましたか? きり、霧山中尉、でしたっけ?」



 青白い電灯に照らされた彼の顔色はすこぶる悪かった。照明のせいと言い訳ができないくらいに。


「その書類、見せて頂けませんか? 今、丸眼鏡の小太りの男性から受け取ったものです」



 どちらが警官だか分からないなと思いつつ、投げかけた台詞に、青年刑事は被せ気味に答えた。



「な、何のことでしょう? これは捜査書類です。例え中尉でも、お見せする訳には……」



 とぼけているつもりなのだろうが、声は裏返り、視線は宙を彷徨っていた。明智はさらに彼を追い込む問いを発した。



「外務省保管の三国同盟関連の機密文書が?」



 しどろもどろの青年刑事は、核心を突いた質問に、目を溢れんばかりに大きく見開き、息を呑んで押し黙った。反応からして、図星のようだ。何故それを知っていると言いたげな目で明智を凝視してきたが、無視をする。



「その書類を私に渡してください。外務省のものは外務省に返すべきです」



 早く受け渡すよう、正論を述べたものの、彼は青ざめながらも首をぶんぶん横に振った。



「できません。これは大事な交渉材料なんです」



「交渉? 自作自演のテロ事件のことで、揺すられてでもいるのですか?」



 地下鉄で起こった人質立て籠り事件は、警視庁特別高等警察部が犯人である労働運動家たちに教唆して起こさせた自作自演の茶番というのが明智が看過した真実だった。


 純朴で正義感の強い所轄刑事の野村警部補は、人質救出に待ったをかけるような本店の命令を『手柄欲しさ故』と解釈していたが、それは違う。


 思想犯罪や国体護持を揺るがす重大犯罪を扱う特高警察は、S《エス》と呼ばれるスパイを多く抱えている。Sは警察官ではなく、元は過激派運動側にいたが、特高に逮捕され、転向し、処罰の軽減を見返りに特高側に寝返った者が多いと、無番地の訓練施設で教えられた。

 元運動家ということもあり、Sは巧みに不穏な動きを見せている地下組織に潜入し、情報収集を行う。しかしそれだけではなく、時にその組織を壊滅に追い込むため、わざとテロ行為や銀行強盗などの重大犯罪を起こすようメンバーに唆し、実際に行動させる。つまり、反対勢力の危険性と特高の取締りの正当性を世間に知らしめるために一役買っているのだ。


 松田に詰め寄られ、『自分は他の二人とは違う』と言い訳していた男が恐らくSだ。

 そして、特高刑事中心の捜査本部が、わざとテロリストの好きなように振舞わせたのも、本当は爆弾なんて積んでいないのに、爆弾を積んでいると虚言を吐かせたのも、事情を知らない一般刑事警察や憲兵隊などの外野が下手に手出しはできない状況を作り出すためだ。何もかもが彼ら特高警察の作戦だったのだ。


 結構な秘密を暴露してやったつもりだったのだが、今度は青年刑事は殆ど動揺しなかった。却って、組織ぐるみの卑劣な裏工作を嘲笑うような短い笑いを漏らした。



「さすが憲兵中尉殿はお気づきだったようで。でも、脅されてなんていませんよ。むしろ今回、あなたがめちゃくちゃに引っ掻き回した茶番のことを、彼に教えたのは僕です。うちも以前から彼のことは要注意人物として観察していましたが、最近の彼は外務に睨まれ、スパイ活動も行き詰まっていたようでした。ですので、特高警察の不正を告発する代わりに、新たな情報の運び屋になってやることにしました。まさか、現役の特高刑事がスパイ行為を幇助しているとは、誰も思いつきませんし」



 自身の犯行や特高の最高機密を暴かれ、却って腹が座ったのか、彼は落ち着きを取り戻しつつあった。けれども、下手な偽悪的な作り笑いを浮かべる精悍な面は、深い悲しみに耐えているかのように苦しげに歪んでいた。生来的に悪役なんてできない男なのだ、彼は。悪役を務めるには、純粋すぎるし、真っ直ぐ過ぎる。



「僕はある先輩の仇を討ちたい、それだけなんです。特高に警察官としての未来も、人生も奪われた先輩の」



 先輩? 仇討ち?


 何でこんな馬鹿なことを、とやりきれない気持ちで、青年の述懐に耳を傾けていたが、突如出てきた予想外の単語に、頭の中で疑問符が氾濫する。

 明智が怪訝に感じていることを見抜き、刑事は微かに微笑んだ。この場に不似合いな、優しげな笑みだった。



「僕の尊敬する先輩は、特高に潰されました。正義感が強く、市民のことを誰よりも大事に思っている刑事の鑑でした。でも、そんな理想の刑事だったからこそ、特高ではやっていけなかった。御子柴たちに精神的に殺された。僕は、あの雑誌記者のスパイ行為の手伝いをする代わりに、特高の悪質な自作自演や違法捜査を暴かせるつもりだった。現場にまでご招待して、臨場感あふれる特高劇場を見てもらい、全世界に暴露して貰うつもりだった。いえ、『だった』は変ですね。今でもそのつもりです」



 だから、これは渡せません、と穏やかだが決然とした口調で彼は宣言し、再び階段を上り始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

一部のAndroid端末では
フォント設定が反映されません。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

アカウントをお持ちの方はログイン

フォロー機能を活用しよう

カクヨムに登録して、気になる小説の更新を逃さずチェック!

アカウントをお持ちの方はログイン

フォロー機能を活用しよう

カクヨムに登録して、お気に入り作者の活動を追いかけよう!