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「つまり、親や先生の期待に応え、陸士を目指すか、或いは大学予科、大学と進学し、弁護士になるかで悩んでいるということか?」
「うん。知事はどっちがいいと思う?」
「俺は、お前がなりたい方を選べばいいと思うぞ。
そう言われても、分からないから相談しているんじゃないか、と口を尖らせ、武は頭を抱えた。
新宿駅からほど近い住宅街の空き地に積み上げられた土管の上に、山本と中学生の少年武は並んで腰掛けている。
武とは、つい先ほど、路地で偶然出会った。
制服姿で、にきび面に変声期特有のかすれ声で話す思春期真っ只中の中学生は、曲がり角でぶつかりかけた山本を見上げ、一瞬幽霊でも見たかのように驚愕した。
けれども、次の瞬間には、喜色満面で、「知事じゃないか! 久しぶり。武だよ。ほら、小学校の帰りに知事のとこ寄ってた」とまくし立てた。
そして、心当たりがあったらしい山本が「あの泣き虫武が、大きくなったなあ」と応じてしまい、数年ぶりの再会を一通り喜んだ2人は立ち話を始め、やがて、話題は武の進路へと移り、深き青春の悩みを打ち明けられた知事は、「少し話そう」と提案したのだ。
何を悠長なことを言い出すのかと、当然明智は喚いたが、結局宥めすかされ、一緒に空き地に移動した。
2人の座る土管の前に置かれたベンチに腰を下ろした明智の苛つきは最高潮に達していた。
情報屋のチョーさんから入手した情報と助言を元に、いよいよ皇紀2600年行事妨害計画書の発見に肉薄していたのではなかったのか。
何故、こんな住宅地のど真ん中で、子供の進路相談の相手なんかをしている。紆余曲折を経、任務完遂に向け、一直線に走り出したと感じた自分は間違えていたのだろうか。
苛々している間も、2人の問答は続く。
「分からなくても投げるな。考えることを放棄すると、大事な物を失うぞ」
「怖いこと言うなよ!」
「怖いけど真実だから言っている。予め怖いと知っていれば、避けられるだろう?」
「そりゃそうだけどさ……」
頼りなげに俯く少年の肩に手を置き、山本は柔らかな口調で囁いた。
「何をしたいか分からないなら、逆にどっちの未来が後悔しないか考えてみろ。ジジイになって死ぬ瞬間、武、お前は陸軍将校になれなかったことと弁護士になれなかったこと、どっちが未練に思う?」
まだ、成人すら迎えていない中学生の子供にするような話ではないだろうが。余計話がこじれ、長くなりそうだ。勘弁してくれ。
「おい、そんな先のこと言っても、中学生に分かる訳……」
「……弁護士になれなかったことの方が悔しい、かも」
堪らず口を挟もうとした明智を遮り、武は自信なさげに答えた。が、毅然と前を向き、言い直す。
「悔しい! 弁護士になれなかったら、例え無理でも、挑戦すらしなかったら、俺は絶対後悔する!」
自分自身の決意をより強固にするように、彼は夢を語る。
「俺、小学校の頃に知事のこと見てて、いつか自分も知事みたいな正義の味方になって、弱い人たちを守りたいって思っていたんだ。俺、喧嘩は弱いけど、勉強なら頑張れるかなって」
『知事みたいな正義の味方』と無邪気に話す少年の言葉に、山本は表情を曇らせた。だが、それに気づける程、少年は大人ではなかった。
「……そっか。まあ、弁護士は相当頑張らないとなれないが、まずは初心を忘れずに努力するんだな」
「うん、俺、弁護士目指して頑張る。親も先生も説得するよ。ありがとう、知事」
滑るようにして、武は土管から降り、着地した。晴れやかな笑顔で振り返り、帽子を脱いで山本にお辞儀をすると、こうしている間にも勉強せねばと呟き、風のように走り去った。
「やれやれ。子供というのは、夢いっぱいで羨ましい。努力次第で、何にでもなれる可能性を秘めているなんて最強だ」
不恰好なフォームで走る武の背中が見えなくなり、一仕事終えた風に溜息を吐いた同期を、明智は出来うる限りの凶悪な目つきで睨みつけた。
「何がやれやれだ。俺たちは任務中だぞ。ガキの人生相談に乗っている暇なんてないはずだ。それを貴様は。人生相談だけじゃない。今日一日で、どれだけ回り道をしたと思っているんだ。しかも、何の結果も出せていない。貴様、任務にかこつけて、散歩がしたかっただけだろう。付き合わされるこっちの身にもなってくれ!」
今まで蓄積していた不平不満を、思う存分ぶちまけてやった。堪忍袋なんぞ、とうに何度も切れすぎて粉々になって霧散している。
最初、山本は何故明智がそこまで怒っているのか理解できないといった面持ちをしていたが、次第に、同僚が相当腹に据えかねていたと悟ったらしく、しおらしく肩を落とし、土管の上から降りて謝罪した。
「すまん。つい、小さな頃から知っている子供だったから、放って置けなくて。今のは完全に職務放棄だった。申し訳ない。ただ、それ以外は全部、無駄なんかじゃない、意味ある捜査だということだけは分かってくれ」
午前中からの新宿散歩が全て必要な捜査だったなんて、そんな訳あるかと思ったが、言い争うのも面倒だった。
「もういい。早く捜査を再開しろ。次はどこに行って、何をするんだ」
腹の虫は全然おさまってなんぞいなかったが、ここで不毛な仲違いをすることは無意味だ。不機嫌なのは丸出しではあるものの、明智は山本に気持ちを入れ替え、仕事に戻るよう促した。これだけガツンと言えば、さすがに堪えるだろうと思ったし、実際に叱られた犬のようにしょげている様子を見ると、多少は効いているように見えた。
「明智、本当にすまなかった。ちょっと付いてきてくれ」
漸く本筋に戻れると安堵した明智が案内されたのは、一軒の駄菓子屋だった。どこの街にもありそうな個人経営の小さな店で、奥では梅干しのように皺くちゃの顔をした老婆が座布団を敷いて鎮座し、店番をしている。
この老婆から話を聞くつもりなのか、と怪訝に感じていると、山本は縁台に並ぶ菓子をいくつか手に取り、狭い通路を抜け、奥に座る老婆に渡した。
「お久し振りです。お婆ちゃん。俺のこと、覚えてますかぁ?」
耳の遠い老人にも聞こえるよう、彼は大きな声で、ゆっくり語りかける。
耳に片手を当て、集中して山本の言葉を一言一句逃すまいと聞いていた老婆は、聞き終えると皺だらけの顔を綻ばせ、のんびりとした口ぶりで答えた。
「覚えてるよ。知事さんだろ? 元気そうで何よりだよ」
「ありがとう。お婆ちゃん。これ、頂戴」
「いいよ。全部で30銭だ」
「はい、ちょうど」
預かった駄菓子を枯れ木の如き手で、ひとつひとつ紙袋に詰めながら、駄菓子屋の老婆は懐かしそうにしみじみと話した。
「しかし、あんた本当久し振りだね。後ろの眼鏡さんはお友達かい? 辛気臭い友達だね。でも、友達と遊んで歩けるくらいにまで持ち直して、本当良かったよ。あの時は、あんたあのまま、死んでしまうんじゃないかって、みんな心配していたんだよ」
山本の謎に包まれた過去に触れる意味深な台詞に、明智は耳をそばだてたが、当の本人は沈黙していた。老婆の方も、それ以上突っ込んだ話はしなかった。
彼がどんな表情をしているのか、店先からは見えない。きっと、苦笑いをし、眉を八の字に下げているのだろう。切れ長の瞳は、何とも表現しがたい、静かな森の奥にある湖のような光を湛えているに違いない。
会計を終えると、山本は老婆と二言三言話し、帰ってきた。もう事情聴取が済んでしまったのかと訝しんでいると、彼は紙袋の中から、球形のカステラ数個を団子のように串に刺した菓子を取り出し、明智に差し出した。
「色々迷惑をかけてすまなかった。せめてもの詫びだ。受け取ってくれ。他にもいくつか買ったから、この先にある神社で食べよう」
怒りを通り越し、泣きたくなった。
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