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 参謀本部からの帰り道、明智は旭と二人並んで、皇居外苑脇を歩いていた。


 年明けから2週間が過ぎ、当麻新所長体勢も漸く軌道に乗り始めていた。結局、明智たち東京勤務一期生8人は全員無番地に残留したものの、訓練生や国内外での外部勤務組は、約半数が他の組織や一般企業に流出してしまった。旭の人柄を知らない者たちが、若い女を所長として認められない気持ちも明智には分かる。事実彼自身も、昨年の春は女上司なんて絶対に認めないと息巻いていたのだ。

 ただでさえ自尊心の高い男のスパイたちが、そう簡単に、一見頼りなさそうな20代半ばの女を上司として受け入れる訳がない。半分残ってくれただけでも上出来だろう。

 彼らは彼らで、自分なりに熟考して出した結果なのだ。

 それに文句をつける権利は自分にはない。


 忸怩たる結果ではあるが、去った者にいつまでも未練たらしく追い続ける時間はない。


 今日は、新年度の予算請求と訓練生の新規募集計画の説明のため、二人は参謀本部を訪問した。弟に殴られてできた傷も無事に癒え、無様な絆創膏が取れていて良かった。


 年配のいかめしい顔をした軍人たちにも怯まず、旭は淡々と要求を伝え、意地の悪い意見や質問をされても、落ち着いた様子で理論的に切り返していた。


 明智は彼女がやり込められた時の代打として同行したのだが、根拠資料が必要になった時に横から手渡すくらいしか働かずに済んでしまった。



「何とかどうしても通したい要求は通りましたね。寮のお手洗いの改修が認められなかったのは残念ですけど。明智さんのおかげです。ありがとうございます」



 吹き荒ぶ寒風に、亀のように首をマフラーに埋めた旭が話しかけてきた。

 所長として、頻繁に外部との交渉のテーブルに着くようになった彼女だが、服装や化粧が今ひとつ垢抜けないところは変わらない。

 洒落者の小泉が懸命に助言しているようだが、流行りの服や仕事のできる職業婦人風のスーツを着せてみても、どうも似合わない。

 デパートの化粧品売り場で、きちんと化粧をして貰い、パリジェンヌ御用達の高価なワンピースを着て登場した際、近藤に指を指して笑われて以来、当麻旭改造計画は、本人の意欲が減退したことも手伝って、早くも暗礁に乗り上げつつあるらしい。



「いいえ。俺は殆ど何もしていません。これはあなたが勝ち取った結果ですよ。もっと自分に自信を持ってください」



 本心でそう思っていたので、伝えたまでであったが、旭はもじもじと照れ臭そうに謙遜した。



「いえいえ。あの資料も明智さんが作ってくれたものですし、やっぱり女一人で行くより、横に敵に回すとうるさそうな男の人が、睨みをきかせてくれていた方が、ずっと意見も通りやすいんです。お手洗いの件は、申し訳ないとみんなに謝らなくてはなりませんがね」



 自分が側にいるだけでも心強いということだろうか。そうであるなら、非常に喜ばしいことだ。


 けれど、社員寮の便所の件は、残念であった。

 老朽化の激しい社員寮でも、離れにある男子用便所は損傷も不衛生さも群を抜いている。夜になると、闇に包まれた便所は、幽霊の存在なんて一切信じていないが、それでも気味が悪く、長年染み付いた糞尿の臭いも鼻が曲がりそうだ。

 早起きの巻き添いを食らわされる仕返しとばかりに、深夜、松田に叩き起こされ、同行を頼まれるので、明智としても一刻も早く建て替え工事をして欲しいと切に願っていた。



「その件は、次にまた出直しましょう。でもまずは、訓練生の新規募集の準備ですね」



 所長失踪事件の余波で失われた人材を補填するのが、この先数年の課題である。旭も真面目な顔で同意する。



「はい。適性のない人を取る訳には行きませんが、大量退職された分の埋め合わせをしないと」



 第一印象の良い広瀬と松田が手分けをし、全国の大学を行脚し、適性の高そうな学生を探し回り始めているが、苦戦していると聞く。たった一人で、訓練生候補を探し出し、勧誘していた先代の手腕には、改めて驚嘆させられる。



「しかし、士官学校まで乗り込むのは如何なものなんですか。この前聞かされてびっくりしましたよ。あそこは、お国のために、命を捨てる覚悟を持った誇り高き帝国軍人を育てる場所だ。うちとは理念が違い過ぎる」



『空き時間ができて暇だったから』という信じられない理由で、先週、松田は陸軍士官学校に、単身、訓練生生徒募集の営業をかけに行ってしまった。しかも、何の事前約束もせずにだ。当然すぐに摘み出され、旭は監督者として、陸軍省からきついお叱りを受けてしまった。

 周囲の迷惑を考えぬ自分勝手な同期の行動に憤る明智を、新所長は苦笑いをしつつも宥めてきた。



「確かに私への伺いもなく、先方と事前約束すらしないで乗り込んでしまったのは良くなかったですけどね。けど、士官学校で訓練生を募集すること自体は悪くない作戦だと思いますよ」



「はあっ!?」



 思わず、突拍子もない声を上げてしまった。何をどう考えたら、真っ直ぐ過ぎる士官学校の陸軍将校の卵たちを、軍人たちに地味で姑息だと陰口を叩かれるスパイに育て上げられるというのか。

 旭は北風に煽られ、ゆらゆらと小さな波を立てるお堀の水を見下ろし、持論を力説した。



「だって、前の所長だって、元は幼年学校からの生え抜きの将校ですよ。私たちのような、一般大学出身者が訓練を受け、こういう仕事をするようになったのはごく最近のことです。士官学校の学生の多数派とは、色々考え方などに隔たりがありますが、所長のような異端分子を発掘できる可能性もある。可能性が少しでもあるなら、行ってみるべきですよ」



「全くあなたは……」



 希望が少しでもあるなら拾うべきと恥じることなく言い切る前向きさには、呆れさせられる。出会った頃は、この異常な程の前向き具合や夢見がちな発言が、堪らなく鬱陶しかったのに、今は呆れながらも、ひょっとしたら、ありかもしれないと思わずにはいられなくなる。

 一日一日に達成できることは微々たるものだが、彼女が口だけではなく、実績を出しつつあるからこそ、余計に希望を託したくなるのだろう。



「あー。寒い。早く社に戻って、お茶でも飲みたいです。あ、でも佐々木さんからまた、報告が届いているかも。早く返事を返さないとあの人怒るからなあ」



 帝都の凍てつく北風は、容赦無く街を人々を襲う。ここは故郷よりは幾分暖かいが、その分、吹く風には、肌に刺すような攻撃的な冷たさがある。



「当麻さん!」



 肩を縮こませ、ペンギンの如きよちよち歩きで進む女所長の名を呼んだ。

 怪訝そうな表情で振り向いた顔は年の割に幼く、鼻の頭が赤くなっていて、とてもではないが、男だらけの諜報機関を率いる女傑には見えない。



「どうかされましたか?」



 立ち止まり、こちらに向き直った旭に、明智は意を決して、自分のありのままの想いを伝えた。見栄や恥はかなぐり捨て、直球の言葉を投げつけた。



「これから俺たちが進む道は、決して楽な道ではないでしょう。否、間違いなく険しい。あなたはそれでもきっと、希望を捨てず、最後まで諦めずに、自身の道を貫く。俺はそんなあなたを心の底から尊敬しているし、好ましいと感じている。力になりたいと願っている。誰にも負けない、あなたの1番の副官になりたい。佐々木にだって、この点だけは譲りたくない。だから、どうか俺を思う存分、使ってください。俺が出せる力、全てを発揮できる名采配を期待しています」



 初めは、ぽかんとした面持ちで聞いていた彼女だったが、次第に丸っこい瞳が潤み、下唇を噛み締め、明智の想いを正面から受け止め、感極まっているような様子になった。


 コートの袖で、目頭と鼻を拭いてから、旭は凛とした表情でこちらを真っ直ぐ見返し、口を開いた。



「ありがとうございます。私もご期待に添えるよう、全力を尽くしますので、明智さんも全力でついてきてください。遅れたら、置いていきますからね」



「望むところです」



 明智も力強く頷く。


 それからお互い、熱い会話をしてしまったことが、何となく恥ずかしくなり、笑い合った。



 紅潮した頬を手で扇ぎながら、旭は照れ隠しをするかのように冗談めかして言った。



「仕事ではなく、ああいうこと言ってくれる男の人に会えたらなあ。明智さん、誰かいい人知りませんか?」



 その発言に、明智は密かに傷つき、落胆したが、理由は自分でもよく分からなかった。伝えたいことは全部言えたし、彼女にもしっかり伝わったように見えるのに、きりりとした痛みが心に残った。

 胸の痛みの正体が判明せず、何だかすっきりしなくて、明智は深く眉間に皺を寄せた。

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