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 昭和16年2月横浜港。


 世界中から人や物資を乗せた船舶が行き交い、赤銅色の肌をした屈強な港湾作業員たちの溌剌とした汗や笑顔で湧く大日本帝国屈指の貿易港も、深夜1時ともなると閑散としていた。


 貨物の入ったコンテナや木箱の積み上げられた港は人気がなく、時折、どこからか汽笛の哀愁漂う音色が聞こえるくらいで、静寂に支配されていた。

 日中は太陽の光を浴びてサファイアの如き群青色に輝く大海原も、今は地平線の先まで続く真っ黒な闇となり、僅かな街灯の灯りのみを残す港湾地域と融合し巨大な闇と化している。


 そんな港の一角に、一台の黒塗りの乗用車が駐車されていた。



 運転席には明智が座り、助手席に無番地所長、当麻旭、後部座席には無骨な作りの無線機本体が鎮座し、その脇でヘッドホンを装着した広瀬がアンテナの向きや電波の強弱を調整していた。



 クイーンの愛称で親しまれる庁舎で執務する横浜税関から、陸軍に隠密の情報提供があったのは、2週間程前のことだ。

 上海を出港し、横浜港に入港した中国船に乗っていた阿片中毒者の男が、阿片を密輸しようとしていたのを税関職員に現認された。

 その男は、阿片の詰まった小さな麻袋をいくつも飲み込み、自らの消化器官の中に隠し持っていたのだ。

 荷物検査の際、挙動不審な上に、異物を大量に飲み込んだ影響の腹痛で、苦悶の表情を浮かべている彼を不審に思った税関職員が問い詰めている最中、いよいよ腹痛に耐えられなくなった彼は、近くの病院に搬送された。

 腹部のレントゲン撮影をした結果、胃や腸にいくつもの袋状の影が写っていた。

 手術をし、取り出した袋を改めて見ると、阿片が発見されたという経緯である。

 密輸のやり口自体は、さほど珍しくないらしいが、問題は阿片と共に袋の一つに収められていたマイクロフィルムであった。

 そのフィルムには、大陸における帝国陸軍の詳細な兵力や人員配置、武器弾薬の備蓄数などの機密情報が事細かに焼き付けられていた。


 阿片以上にとんでもないものを見つけてしまった税関当局は、至急陸軍に通報した。

 そして、参謀本部を通し、無番地に調査依頼が下りてきたというのが、大まかな現在までの経緯だ。



 微調整を済ませた広瀬は、車窓から無人の港を歩く一人の人影を発見すると、無線機に向かい、話しかけた。



「こちらジョージ。本部付近で的を確認。同行者なし。単身、徒歩にて待ち合わせ場所に向かっている模様」



 新たに改良が加えられた無線機は、本体こそかさばるが、各諜報員の持つ子機は万年筆型と小ぶりなまま、以前より音質は劇的に向上した。また、通信可能区域も広がった上に、盗聴の心配も著しく減少した。

 実用に移すのは、今夜が初めてだが、試験使用の時から、終始広瀬が鼻高々だったのは言うまでもない。



『こちらディコイ。1時の方向に的と思しき人影を発見』



 鮮明な音質で、満島の応答が車内全体に聞こえた。

 今夜の作戦は、先日逮捕された件の男の供述から発覚した阿片の売人である的に、囮役の満島が客を装い接触、その場で的を確保し、麻薬密売組織とスパイ網に関する情報を聞き出すというものだ。


 港には、確保要員として、近藤と山本。明智たちの車とは別に、護送車両に乗った小泉、松田がそれぞれ待機している。



「そのまま予定通り接触するように伝えてください」



 助手席の旭が指示を出す。簡単な指揮一つまともに出せず、右往左往していた昨年の春先が、嘘のような落ち着きぶりだ。

 彼女の発した指揮を明智は補った。



「近藤と山本にも、いつでも的の確保ができるよう準備しておくように伝えてくれ。無論、小泉たちにもな」



「了解」



 無線に向かっている広瀬の背中をバックミラー越しに見ながら、背広の上からそっと、腰に装着したホルスターに触れた。

 革越しにも、固く冷たい銃身の感触が伝わり、緊張感が高まる。

 危険を伴う任務ということで、携行させられたが、その引き金を引く場面は訪れて欲しくないものだと考えてしまう。



『的が接近中。作戦決行』



 緊迫感に溢れた満島の声を合図に、一同が己の成すべき役割に専念した。





 数時間後、無事確保した売人の襟首に、明智たちは先日逮捕された運び屋と同じ、奇妙な刺青を発見した。

 アルファベットで一文字『S』とだけ刻まれた男は、自らも阿片の虜になっており、幻覚が見えているようだった。



 一時的に間借りした横浜税関の会議室で、2人の阿片中毒者の刺青を撮影した写真を並べ、旭は先代所長そっくりの渋面をしていた。



「『S』特高のスパイの隠語、とは違いますよね。でも、それを敢えて皮肉ったようにも感じられる。この事件、何だか一筋縄には行かない気がしてきました。どう思います?」



 女所長は、傍らに立つ副官に意見を求めた。



「俺もそう思います。最初に考えていたよりずっと、厄介な敵かもしれない」



 窓から射し込む朝日を横顔に受け、明智も険しい表情で同意した。


 暫く忙しくなりそうだし、面倒なことも沢山待ち受けていそうだ。

 けれども、自分なら、自分たちなら成し遂げられる。

 そう彼は、確信している。

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諜報員明智湖太郎 十五 静香 @aryaryagiex

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