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 皇国共済組合基金、通称無番地の所長は50がらみの中年紳士である。



 彼は皆から『所長』と呼ばれ、無番地所属の諜報員及び訓練生全員を統括する立場にあるが、現職に至るまでの経歴、陸軍内での階級などの個人情報は明かされていない。

 本名はおろか、偽名すらも名乗らず、一貫して『所長』という呼称を使用している。

 上司の名前が分からないという異様な状況を、意外と言うべきかさもありなんと言うべきか、評価は分かれそうだが、いずれにしても無番地で働く者たちはすんなり受け入れていた。

 無愛想な、やや額が禿げ上がっている長身痩躯の中年男が、自分たちを指揮するスパイマスターであり、『所長』であるとだけ認識していれば、他の雑多なプロフィールは無価値だ。



 諜報員たちは、知能・体力共に人間離れした能力を求められる入社試験や初等科訓練を突破する過程で、所長のカリスマ的な人格や多種多様な分野での卓抜した知識・能力に触れ、彼もまた『こちら側の人間』であり、かつ今までの人生で出会ったどんな人間よりも、自分たちの能力を正確に評価し、適切な指揮を取れる人物だと悟っていたからである。



 無番地は、自己の能力の無限性は信じても、神の存在なんぞ、凡そ信じぬ不遜な天才たちの集まりであったが、そんな彼等も所長だけには一目置いていたし、ある種の信仰にも似た信頼を抱いていた。




「3日前、東京憲兵隊の桐原光太郎きりはらこうたろう大佐のもとに、郵便で差出人不明の脅迫文が届いた。消印は20日付の日本橋郵便局のものだ。脅迫文には、新聞を切り貼りした文字で『昨今の憲兵隊の行き過ぎた思想取締りについて、今月30日の正午までに、大佐自ら非を認め、公に謝罪をしなければ、女学校2年になる大佐の娘を誘拐し、殺害する』と書いてあったそうだ。桐原大佐は東京憲兵隊の思想憲兵部門の実質的な総指揮官だ。逆恨みは身に覚えがあり過ぎる」



 明智が所長室に入室するなり、所長は黒革の肘掛け椅子に腰を沈めたまま話し始めた。


 無表情で淡々と話しながら、マホガニー製の事務机の引き出しから一綴の紙束を取り出し、机上に放り投げる。


 一礼して進み出、紙束を受け取る。


 早速、3センチ程の厚さはある紙束のページをめくってみると、桐原一家の顔写真や経歴、邸宅の見取り図などの資料が目についた。



「当初、念のため娘は当分の間、学校を休ませ、自宅から出させずに警備するのが憲兵隊の方針だったのようだがな。この娘が曲者で、来月に期末試験があるから学校を長く休みたくないとか駄々を捏ねはじめ、しまいには、学校に行けないなら家出して友達の家から通うと臍を曲げてしまった。情けないことに、父親を筆頭に誰も説得ができなかったそうだ」



 先ほどめくったページにあったセーラー服を着た少女の写真を思い出す。


 女学生らしいお下げ髪で、年相応の幼さが残る顔立ちだが、確かに何となく気が強そうな印象の娘だった。

 名前は範子のりこと書いてあった。



「泣く子も黙る憲兵大佐殿も、目に入れても痛くない愛娘の強情には手も足も出ず、結局、24時間警護を条件に娘の通学を認めた。しかし、憲兵隊も犯人探しをしつつ、警護要員を駆り出すとなると出せる人数も限度があるし、主な警護場所はお嬢様学校。強面の憲兵どもがうろつけば、教師や他の生徒たちに余計な不安を与え、必要以上にことが大きくなってしまう。あんないたずらの可能性も否定できない、出所不明の脅迫文に、天下の憲兵隊が振り回されていると臣民たちに周知されるのは不名誉だそうだ」



 ここで所長は鼻を鳴らし、短く嘲笑した。

 とかく最近の軍人はつまらぬ矜持に囚われ、大局を見誤りがちというのが、彼の持論だ。

 明智もその分析には、大いに同意したい。


 ヒクッ、と引きつったような音を漏らすと、仏頂面に戻った所長は、上目遣いに明智を見上げた。



「そこで、一見優男揃いのうちにお鉢が回ってきたわけだ。先方はうちの諜報員に、娘の運転手兼執事になりすまし、万が一の事態が起こらぬよう警護すると同時に、至急脅迫文の送り主を暴き出して欲しいそうだ。明智、貴様はちょうど先月も、憲兵隊に恩を売っているし、自分でも適任だと思わないか?」



 広い額の下の眉が意地悪く踊り、実験動物を観察する科学者のような視線をぶつけられる。


 こちらの反応を楽しみにしているのがありありと伝わってくる。


 このハゲ、俺の女嫌いを分かっていながら、反抗期真っ盛りのわがまま娘のお守りを押し付けようとしてやがる、と胸の中で悪態を吐く。



 先月の憲兵隊絡みの任務でも、所長は『女嫌い克服のための荒療治』と称し、明智に大層厄介な女の相手をさせ、苦戦している様を楽しんでいるようだった。

 こうも連続すると、女嫌い治療云々は建前で、単に趣味の悪い遊びに付き合わされているだけの気がしてならない。


 せめてもの腹いせに、わざとすぐには返事をせず、数秒、資料に目を落とし、任務を受けるか否か考える素ぶりをする。

 ちょうど開いていたページは、罫線が引いてあるだけの無機質な便箋の上に、乱雑に貼り付けられた活字がいかにも『それっぽい』脅迫文の写真が貼り付けられた報告書だった。

 しばし凝視しているうちに、頭の中にいくつかの仮説が閃いた。


 何、これくらい造作ない。

 強情だとはいえ、所詮小学生に毛が生えた程度の女学生のお守りをしながらでも、十分にこなせる案件だ。


 意識して不敵な笑みを口元に湛え、見栄を切った。



「そうですね。先月の件は、横浜でしたが、ここで東京の憲兵隊にも恩を売っておくのも悪くありません。この任務、私にお任せください」



 所長はうむとだけ頷くと、腰掛けている椅子ごと回転し、こちらに背を向けてしまった。


 もう用は済んだので、早く出て行けということらしい。

 全くもって勝手な男だ。



 明智は読み終えた資料を恭しく所長の机上に置き、所長室をあとにした。

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