13

 彼女が明智を訪ねて来たのは、翌日、3限目の古文の授業中だった。



 運転席の窓を控え目に覗き込む、範子より大分小柄なセーラー服の少女の姿を認め、明智は車から降りた。

 車体に背中を預け、彼女の正面に立つ。



「私も、あ、あなたに話があります」



 40センチ近く身長差のある彼を見上げ、棚村節子は上擦った声で言った。


 小学生のように幼く愛くるしい顔は、不安と恐怖に泣き出しそうだったが、涙の滲んだ瞳には、覚悟を決めた強い意志の光が宿っていた。



「今授業中だと思うのですが、大丈夫なのですか?」



 盗聴器のおかげで、彼女が仮病を使って、早退してきたのは知っていたが、知らないふりをする。



「平気です。休み時間や放課後だと、のりちゃんに気づかれちゃうから」



「授業をサボるのは褒められたことではありませんが、賢明な判断です。ありがとうございます」


 いいえ、と謙遜してから、節子は一度大きく深呼吸をし、切り出した。



「下駄箱の封筒見ました。どうして、私だって分かったのですか?」



「脅迫文の消印があなたの家の最寄りの郵便局だったこと、範子様にはあなた以外に共犯者になってくれるようなお友達がいなかったから、ですかね」



 所長室で脅迫文の写真を目にした時、その内容の稚拙さと雑な作りに吹き出しそうになったのを覚えている。

 大体、要求が桐原大佐の謝罪なんて何がしたいのか分からない。

 本物だったら、投獄中の同志の解放だとか、大佐の辞任とか、もっと実益のある要求をしてくるだろう。

 切り貼りされた活字も、全て同じ雑誌から切り抜いているように見えた。

 まるで、映画や三文小説に出てくる脅迫状を安易に真似ただけの、代物。

 大人のプロのテロリストがこんな子供騙しを作るとは考えにくかった。子供騙しだけに、子供が作ったと考えるのが自然だった。

 命を狙われているにも関わらず、異常な程、悠長に構えている範子の態度を見て、自作自演疑惑が強まった。

 ただし、脅迫状に消印が押された日には、範子は学校から真っ直ぐ松濤の自宅に電車で帰宅しており外出はしていないので、犯行には共犯者が必要だ。

 そして浮上したのが節子だった訳だ。


 因みに、広瀬に節子の下駄箱に投げ込ませた封筒には、脅迫文を作成するために千切られた雑誌にその表紙の写真、それから『あなたのしたことは分かっている。この手紙と写真を持って裏門に来なさい。 運転手』と印字したメモを入れておいた。



「のりちゃんの部屋から、よくあの雑誌を見つけましたね」



「まあ、脅迫文の犯人探しも私の仕事です。それくらい少し頑張ればすぐに見つかりますよ」



「……あの雑誌、捨てるように言ったんです。なのに、のりちゃんたら、上原謙が出てるから捨てたくないって言って。どうせバレないから平気だって」



 節子は俯き加減に地面を見つめていたが、白く小さな前歯が、悔しそうに唇を噛み締めているのが見えた。



「残念でしたね。大人はそう簡単に欺けませんよ」



 艶々とした黒髪が肩口を流れ、小動物を彷彿させる二つの瞳が憎々しげに明智を睨みつけていた。この子は大人しいが、決して弱い子ではないと悟らされる。

 怯えた子兎のような姿は擬態。10歳以上年上の体格差も大きい成人男子にたった1人で対峙しようとする今の姿が本性なのだ。



「何が目的なの? 条件を言って頂戴」



 一端いっぱしに駆け引き交渉に挑もうとする度胸に、呆れを通り越して感服する。つい、口元に笑みが漏れてしまい、さらに強く睨まれてしまった。



「そんな大層な駆け引き、私は最初からするつもりありませんよ。私の仕事は、万が一の時に範子様をお守りすることと、脅迫文の犯人探しです。あなた方の罪を、無闇に言いふらすようなことはしない。ただ、あなたにお願いしたいことは一つあるので、こうしてご足労頂いたまでです」



「何ですか?」


 

 不審と嫌悪を隠さない、険のある口調だった。



「共犯者として、お友達として、こんな馬鹿な真似は早くやめて、お父様に全て本当のことを話し、謝罪するよう範子様を説得して欲しいのです。私が範子様を告発することは容易たやすいですが、できればそれは避けたい。彼女に自分の罪を悔い、自らの口でお父様に本当のことを話し、謝って貰いたいのです。あなたの言うことなら、彼女は割と素直に聞くのでしょう?」



 にたりと挑発するように笑いかけると、節子は冷ややかに言い放った。



「当たり前じゃない。そんな簡単なことだけでいいんですか?」



 思った通りの反応だった。後ほど範子本人から聞くつもりではいるが、折角なので、動機くらい聞いておいてやるかと思い、「どうしてそんなことをしたのか」と尋ねてみた。



 すると彼女は、突如濃紺のスカートの裾を翻し、数歩後退した。可愛らしい童顔は、熟練の玄人女の如き嫌らしい微笑に歪んでいて、明智の背に冷たいものが走った。



「のりちゃんはね、お母様が亡くなってから、お父様にもお兄様にも放って置かれて寂しかったんです。だから構って欲しいなら、思い切り心配かけちゃえばいいのにって言ったら、じゃあ狂言で脅迫事件を起こそうなんて言い出して。子供ですよね。一応私は注意しましたよ? 冗談では済まなくなるからやめようって。でも、『せっちゃんには絶対に迷惑かけないから』って言って。そのくせ、手紙の発送を私に託したりして、本当迷惑だった」



 動機は、察しがついていた通りの子供じみたものだったが、それを楽しげに語る節子の態度に、明智は嫌悪感を覚えた。



「あなたにとって、範子様は自分の庇護欲や独占欲を満たすためのお人形だった、ということですか?」



 偽悪的な自分に酔っている少女は、当然『そうだ』と首肯するものだと予測していた。

 しかし、節子は不愉快極まりないといった風に顔を顰め、頭を横に振った。



「そんな言い方するのはやめてください。のりちゃんは私の大切な友達です」



 狂ってる。矛盾している。訳が解らない。どのような思考回路をしているのか皆目見当がつかない。こんな幼い子供でも、女は化け物だ。愛らしい外見の下には、どす黒い毒が隠されている。

 或いは、女だからではなく、思春期だからか? いや、少なくとも自分の中学時代は、こんなではなかった。もっとずっと単純で、分かりやすい子供だった。


 本音を言えば、彼女と会話を続けたくなかった。適当にあしらい、早い所どこかに追い払ってしまいたかった。

 でも、彼の中の正義感はそれを許さなかった。



「本当にそう思うなら、範子様の友達を自称するなら、彼女が道を誤った時には、全力で止めるべきではないか? それができないなら、軽々しく友達を名乗るな」



 刹那せつな、節子は般若の如き面相をした。案の定と言うべき反応だった。

 が、すぐに常に何かに怯えているような擬態を被り、恐る恐る質問してきた。



「あの、私も何か叱られたり、罪に問われたりするのでしょうか?」



 明智は冷徹に言い放った。



「さあ? 刑法的に言えば威力業務妨害罪の共犯になりますが、あなたは未成年ですからね。他の処分については、仕事の範囲外ですし、私は知る由もありません。まあ、あなたの今後の行動次第でしょうね。さあ、手紙と写真を返して貰えますか? こういうものはあまり残したくないので」



 バチンという音と共に、頬に手紙と写真を叩きつけられた。

 節子がバレーボールのアタックの要領で飛び上がり、明智に渾身の一発をお見舞いしたのだ。ジンジンと痛む頬をさすりながら、足早に駆けて行く小さな背中を見送った。



 これで節子が範子を説得し、範子が父親に自首をして、些か度を超えてしまった狂言脅迫劇は閉幕するはずだった。


 ところが、何故か事態は明智の思う通りには進まなかった。


 範子はその夜も次の夜も、明智にも桐原大佐にも自首しなかったのだ。節子は明智と接触した日の昼休みには、範子を「話がある」と教室外に連れ出していた。実際に説得をしている様子は確認できなかったが、狂言事件関係の会話をしたと考えるのが自然だった。

 話し合いを終え、別々に教室に帰ってきてから、下校まで2人は一切会話をしなかった。校内に潜入していた憲兵の話では、下校時も目も合わせず、別々に教室を出たらしい。

 明らかに何かあったと思われた。


 そして、まるで当てつけのように、翌日金曜、翌々日土曜と節子は学校を欠席した。


 二人の間に何かあったのか、さり気なく範子に尋ねるのも不自然であるし、自宅にいる節子に接触するのはもっと不自然である上、彼女に嘘をつかれても反証材料がこちらにはない。私はちゃんと説得したと言い張られたらそれまでだ。苦労して面会しても、得られる利益は少ない。


 結局、範子の自主性に期待し続けたものの、6月30日の日曜日が過ぎてしまった。

 桐原大佐が憲兵隊の行き過ぎた取締りを謝罪することはなかったが、当然何も起こらず、暦は7月に入った。

 月が明け、節子は再び登校するようになったが、二人の仲が元に戻った気配は全くなかった。


 当初の任期は経過していたが、明智は表向きは念のためと言い訳し、範子の運転手兼執事を続けた。まだ、一部の任務は終わっていないのだ。このまま任期切れを理由に投げ出すなんてできなかった。


 憲兵隊から派遣された警備人員も徐々に減らされ、いよいよ脅迫事件は被疑者不詳のいたずらと処理されようとし始めた。

 明智も、いよいよ直接範子に真実を告白するよう迫るしかないと諦め、膝を詰めて話をしようと決心した夕方、事件は起こった。

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