14

 その日、昇降口を出てきた範子の顔色は青ざめ、表情は引きつっていた。


 異変に感じた明智は、何かあったのかとすぐに尋ねたが、「月の障りのせいよ」と一言返されてしまい、追及しづらくなった。

 引っかかるものを感じながらも、いつも通り後部座席に範子が乗り込んだのを確認し、車を発車させた。

 バックミラーに映る彼女は、絶えず落ち着きなく視線を動かし、蒸し暑い車内なのに寒気でもしているのか、しきりに半袖の制服から伸びる細腕をさすっていた。

 彼女のペースに合わせ、見守ってやる段階はとうに過ぎている。初夏の太陽の照り返しに目を細め、明智は口火を切った。



「お嬢様。以前から感じていましたが、あなたは私やお父様に隠していることがありますよね? そのせいで、最近、節子様ともご一緒にいらっしゃらないのですよね?」



 範子の肩がビクリと震え、つり気味の瞳が大きく見開かれた。


 小さな唇が震え、顔色は益々青ざめる。

 バックミラー越しに注がれる明智の視線から逃れるように顔を背け、彼女はしらを切った。



「……何でもないっていっているじゃない。何? 隠していることって? そんなものないわ。せっちゃんとは、ちょっとしたことで喧嘩しただけよ。明智には関係ない」



「関係ありますよ。私はお嬢様のことをお守りするよう、あなたのお父様から仰せつかっております。顔面蒼白になり、明らかに何かに怯えた様子のあなたを放置できません。どんなことも、話してしまうまでが一番苦しい。話すと意外とスッキリして、何とかなるものです」



「だから、何のことを言っているのか分からない!」



 範子はヒステリックに叫んだ。


 しかし、明智は追及の手を緩めない。



「ここまで私に言わせますか? 先月、桐原大佐宛に届いた脅迫文のことですよ。大佐が今までの思想取締りを謝罪しないと、あなたを誘拐して殺すという、幼稚な脅迫文のことです。あれはあなたと節子様が……」



「言わないでっ!」



 鼓膜にジンジンとした余韻が残る程の大声で、明智の言葉は遮られた。

 しんと車内は静まり返る。

 だが、暫しの沈黙の後、観念したのか、彼女は絞り出すような小さく掠れた声で言った。



「分かったわよ……。降参よ。全部話すから。約束するから。でもお願い、うちに帰って着替えてからにして頂戴……。心の準備をしたいの」



「承知しました」



 彼女の申し出を受け入れつつも、明智の心中は「もっと綺麗な終わり方にしたかったのに」という忸怩じくじたる思いに占められていた。

 強い友情に繋がれた2人の女学生が自主的に罪を告白し、範子は素直な想いを父親に伝え、離れかけていた親子の絆を確かめ合った父子が抱き合って涙するという、お涙頂戴の幕引きを期待した自分が馬鹿だった。

 現実はそんなに甘くないし、子供といえども、人間の感情や行動はそう単純ではない。

 仮にも謀略や陰謀が常に渦巻く諜報活動を生業とているにも関わらず、相手が育ちの良いお嬢様だからというだけで、無条件で彼女の善性を信頼してしまったことを猛烈に反省した。




 桐原邸に到着すると、範子は着替えてくると言い、真っ直ぐ自室に引っ込んでしまった。

 明智は廊下で、入っても良いと声を掛けられるのをのを待っていたが、急に虫の知らせとしか形容しがたい不安を感じ、徐にノックもせずに女学生の部屋のドアを開け放った。



 部屋に入ってから5分は経過していたのに、範子は制服姿のままだった。



 座卓の前にへたり込み、項垂れている彼女の右手には工作用の小刀が握られ、今まさに、小刻みに震える刃先が、青白い左手首に浮き出ている血管を掻き切ろうとしていた。



「馬鹿野郎!」



 明智は、従順な執事という役柄も忘れ、恫喝どうかつした。同時に少女に飛びかかり、力づくで小刀を奪い取る。

 どんな暴言を吐いても、紳士らしい振る舞いを崩さなかった執事の変貌に驚き、範子はされるがまま、絨毯敷じゅうたんじきの床に組み伏せられた。



 驚愕のため、取り押さえられて数十秒は、マネキン人形のように瞬き1つせず、硬直していた彼女だったが、やがて、事態を飲み込み始めると、青白い顔がみるみるうちに朱に染まり、充血した瞳から大粒の涙が流れ落ちた。



「何てことをしようとしていたのですか、あなたは」



 間一髪で自殺を食い止めた明智は、範子を解放し、小刀を机上にあった鞘に収め、彼女の手の届かない場所に置いた。


 のろのろと体を起こした範子は、わんわん声を上げて泣き出した。


 どうしたものか迷ったが、泣きじゃくる彼女の前に腰を下ろし、恐る恐る背中に手を回し、さすってやろうとしたところ、ベストの胸ぐらを鷲掴みにされ、ぐいと引き寄せられた。

 明智は、ついさっき自殺未遂現場を目撃した時よりも激しく動揺し、頭が真っ白になった。

 目の前で女に泣かれたことすら、20数年の人生で初めての経験だったのにも関わらず、加えて胸の中に飛び込まれたのだ。女慣れしていない彼の許容範囲を既に大きく凌駕していた。


 少女は呆然としている明智の剣道で鍛えた胸板に顔を埋め、さらに大きな声で泣き続けた。

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