第5話 明智、決断する

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 所長が失踪した。



 その日は突然にやってきた。



 昭和15年12月初旬の冬晴れの午後。

 皇紀2600年記念行事もつつがなく終わり、街にはまた『贅沢は敵だ』などの無粋な看板が並ぶようになった頃。


 皇国共済組合基金、通称無番地の所長は、所長室から忽然と姿を消した。


 諜報員たちは、当初、参謀本部から急な呼び出しがあったのだろうなどと話し合っていた。

 しかし、念のため、参謀本部や陸軍省本省をはじめとした、所長が訪れそうな関係機関に連絡を取ってみると、どの機関も呼び出しもしていなければ、訪問も受けていないとのことだった。

 夕方になっても、勤務終了時刻を過ぎても、夜になっても、所長は帰ってこなかった。


 その後、当麻旭の指揮の下、東京勤務の無番地一期生8名総出の所在捜査が行われ、過程で、彼が意図的に失踪を企てたことなどが発覚した。

 また、長らく不明だった所長の本名や陸軍内での階級・経歴、壮絶な過去なども明るみになり、諜報員たちにも少なからぬ衝撃が走った。


 結局、無番地所長は、陸軍幼年学校時代からの友人だったある陸軍幹部を殺害する寸でのところを、当麻旭に発見され、犯行も阻止された。

 殺害動機はいくつかあったようだったが、復讐目的と言って差し支えないだろう。

 そのためにわざわざ、失踪までして、無番地の面々に迷惑がかからぬよう配慮した、徹底した殺人計画だった。


 彼が殺人未遂事件を起こしたのは、実は今回が二度目であった。

 最初の一回は、20年以上昔、大戦中のロンドンで起こしたらしい。

 当時、所長は、帝国陸軍派遣の特務将校として、英国内で諜報活動に従事していた。相当な敏腕スパイであったらしく、陸軍幹部からの信頼も厚く、将来を有望視されていたらしい。

 だが、将来有望な青年特務将校は、ある霧の夜、帰り着いた我が家で、変わり果てた姿になった最愛の妻子を発見した。


 実行犯の後輩将校は、すぐに逮捕された。

 やんごとなき家柄出身だが、やや思慮に欠けるところのあった彼は、ハニートラップに引っかかり、その件で枢軸国であったドイツ側のスパイから揺すられ、唆され、凶行に至ったと証言した。

 陸軍上層部は、彼を処罰せず、日本に送還し、精神病棟の鉄格子の向こう側に閉じ込め、事件の経緯やそのものも、闇の奥に押し込めるという決断を下した。

 実行犯を唆した誰かや、もしかしてその後ろにいるかもしれない誰かについての捜査は早々に打ち切られた。


 それは、世間体や後輩将校の実家に最大限に配慮した判断であり、国同士の諜報戦の巻き添いを食い、無残に殺された母子や、たった一人残された青年将校への配慮はないがしろにした判断であった。


 気の毒だが、仕方がないのだ。諜報活動に関わっている以上、自分自身はおろか、家族にさえ危険が及ぶことがあるなんて、分かりきっていただろう。


 悲しみに打ちひしがれる青年を、心無い言葉がさらに鞭打ったと聞く。


 この世の全てを憎み、絶望した彼は、日本に護送される途中の仇に、軍刀を引き抜き、斬りかかった。


 瞬く間に、周囲にいた護衛の武官たちにより、復讐の刃は取り上げられ、所長自身も取り押さえられたが、この事件をきっかけに、敏腕特務将校は閑職に追い込まれた。


 免職にならなかったのは、彼を重宝していた陸軍幹部たちなりの贖罪と温情の現れだ。



 日本に帰国し、以降20年以上。


 暇になった時間を活用し、所長は闇に葬られた事件の真相解明に尽力した。それは最早執念とも呼ぶべきで、彼のスパイとしての実績を評価した幹部の計らいで、無番地を設立し、学生を集め、一人前の諜報員に育て上げ、彼らを使って再び諜報活動に関わるようになってからも、調査は密かに続行していたらしい。


 そして漸く、実行犯らを唆した事件の黒幕とも呼ぶべき存在にたどり着いた。


 それが前述の、幼年学校からの付き合いで、ロンドンの事件の時も共に駐在勤務をしていた陸軍幹部だった。


 彼が何故、親友の妻子を殺害するよう暗躍したのかは、何度も本人の言い分をまとめた調書を読んだり、実際に対峙した旭や佐々木から聞いたりしたが、明智には全く理解できなかった。

 生まれつきに良心が欠落した、探偵小説に出てくる快楽殺人者のような人物なのだろうとしか言いようがない。


 旭の必死の立ち回りにより、所長は殺人を思い留まり、黒幕も今度こそ、司法の手に引き渡された。


 しかしながら所長は、帰ってこなかった。


 スパイたるもの、常に冷静沈着であれと説いていたくせに、感情のままに行動した。

 殺人を否定し、『スパイは究極、人間相手の仕事だ。世の中の裏側から人を動かし、世界を動かす。人をやめた者に人は動かせない。だから、人であり続けろ』と偉そうに語っていたくせに、自分は人をやめ、人殺しになろうとした。

 否、人であったから、人殺しをしようとするまでの激情を抑えられなくなったのだろうか。



 とにかく、自らスパイの掟を破った責任を取るかのように、彼は引き止める旭を振り払い、再び姿をくらました。


 手塩にかけて育て上げた無番地と所属する諜報員、訓練施設にいる学生全てを、たった一人の新米女スパイマスターに託して。


 無責任過ぎる。責任を取っているようで、実際は全く取っていない。



 年末最終勤務日まで、旭も、彼女を補佐する佐々木を中心とした諜報員たちも事後処理に追われた。


 何とか、年内に対外的な事柄については決着がつき、年始からは、旭をトップにした新体制で無番地を存続させることに決まった。


 年末最後の勤務日、所長が失踪して以来、まるで彼が乗り移ったかのように、険しい表情をするようになった新所長は、訓練施設の学生や世界各地で諜報任務に当たっている者たちも含め、無番地所属の全ての諜報員に宛て、声明を発出した。



「来年からは、私が所長職を引き継ぎます。でも、私の下で働くことに不安や不満のある方も大勢いらっしゃると思います。ですから、希望される方は、参謀本部や中野学校への転属ができるようにして貰いました。勿論、スパイ自体を辞め、別の仕事に就いても構いません。皆さんの好きなようにしてください。年明けの勤務日までに、それぞれ答えを出して、私に教えてください。ここに残るか、別の組織に異動するか、スパイを辞めるか。後悔の残らない答えを出してください」




 昭和16年1月2日朝。


 故郷から東京に戻る列車の中で、明智は車窓に広がる雪景色を見ながら、自らの道を模索していた。


 列車がトンネルに入り、窓に映し出された秀麗な顔の左頬一帯には、大きな絆創膏が貼り付けられている。



 年末から、ずっと自分の出すべき答えを探し続け、実家に帰っても上の空でいたせいで、元旦の昨日、態度が悪いとすぐ下の医学生の弟に注意をされ、久方ぶりの兄弟喧嘩に発展した。

 学校の授業程度でしか武術の心得がないひ弱な弟だと手加減していたら、体重を乗せた見事な右ストレートを頬に食らわせられ、眼鏡が吹っ飛び、殴られた場所には青あざができた。


 今朝も、もう東京に帰るのか、長男のくせに家を捨てる気かとなじられながらの出発だった。


 ただでさえ、所長失踪騒動で波乱の年末だったのに、とてつもなく重い宿題を出された挙句、この様だ。


 最低の年末年始休暇だ。



 早めに東京に帰るのには訳があった。

 宿題の答えはほぼ出ている。


 けれども、どうして自分がその答えを出したのか、分からないのだ。


 その謎は、田舎で燻っていても解けない。


 現場である皇国共済組合基金ビルや社員寮に身を置き、所長の残したものに想いを馳せつつ、熟考すべき課題だ。



 諜報員明智湖太郎は今、正念場に立たされていた。

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