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 無事、反体制派による皇紀2600年記念行事妨害計画の計画書を回収し、皇国共済組合基金ビルに帰る道中、明智は神社の石段で山本に指摘されたことが頭から離れず、始終気難しい顔で物思いに耽っていた。


 山本も身体中の毛穴から鬱々とした空気を放出している彼に、気を使ったようで、不用意に話しかけてはこなかった。



 自分は流されていたのだろうか。


 佐々木の背中を追いかけることだけに専念し、自分自身で考えることを放棄していたのだろうか。


 芯のない、ぶれた人間だったのだろうか。


 多分、そうなんだ。


 山本の言う通り、自分は当たり前のように佐々木と共に行動し、何か悩めば佐々木に相談し、その助言を鵜呑みにし、そのことに何の違和感も危機感も持たずに過ごしていた。


 改めて考えると、それは最早、立派な佐々木依存症だ。


 今や自分は、夏に出会ったある女学生を幼いとか、過度に友人に依存していて不気味だなどと非難できない。


 自分は何をどうしたくて、スパイをしているのだろう。


 地下鉄人質事件の後も、同じようなことで悩んだが、あの時は、佐々木に「今この瞬間正しいと思えることを成し遂げ、積み重ねていくしかない」と助言され、そうかと一応納得した。

 けれど、『今正しいと思えることを成し遂げる』ということは、換言すれば、『先のことは考えずに進め』ということだ。

 それは、山本がしきりに警鐘を鳴らす『大事な物を失いかねない思考停止』にはならないのだろうか。



 市電を降り、皇国共済組合基金ビルに向かう見慣れた道を歩き始めても、明智は悶々とし続けていた。



「……何というか、さっきはすまなかったな」



 並んで歩いていた山本が、徐に口を利いた。



「気にするな。貴様の言う通り、地道な捜査は大事だ。多少かったるくてもな」



 考え事を中断されたことに、若干苛立ちながらも適当にあしらった。

 しかし、彼はさらに話しかけてきた。



「いや、そっちじゃなくて……。まあ、一日中連れ回したのも、多少は悪かったと思うが、そっちじゃなくて、芯がないとか、佐々木のすぐ後ろを走りたいだけとか、酷いことを言った件だ。俺も自分のやり方を否定されて、カッとなってつい、思っていても言ってはいけないことを口にしてしてしまった。本当にすまん。あまり気にすんな」



「ああ、そっちか。別にいいさ。真実なんだから」



 地面に目線を落とし、暗い声音で応じる。今さら謝られても、取り返しはつかないし、失言だとかそういう議論はどうでも良かった。もっと考えねばならぬ命題が自分にはあるのだ。

 予想以上に明智の落ち込みが重症だと悟ったらしい山本は、慌てて取り繕った。



「おい、生真面目に受け止めすぎだぞ。売り言葉に買い言葉だったと言っているじゃないか。しっかりしろ。いつもの自信過剰で、高慢ちき。鼻持ちならない貴様はどこへ行った」



「売り言葉に買い言葉でも、実際そう思っていたから言ったのだろう? 今言ったよな、『思っていても言ってはいけないことを口にしてしまった』と」



 ああもう、と呟き、知事というあだ名の男は立ち止まり、片手で額を押さえた。付き合いきれんと呆れているのだろう。硝子の剣の如き扱いづらい歳下の同期には、完全無欠の知事もお手上げだと感じているに違いない。


 明智は構わず一人、夕暮れ時の帝都をとぼとぼと進む。今日は早く寝ようと思いながら、皇国共済組合基金ビルの建つ並びに入る路地を曲がった時だった。


 後ろから山本が駆けてきて、追いつくなりに、明智の両肩を掴んだ。勤皇の志士を彷彿させる精悍で、意志の強そうな顔が真正面にあった。



「全く! これでは俺が所長に叱られるじゃないか。貴様の心を折ったと責められる」



「大丈夫だ……。所長や皆には悟られないようにするし、心折れたからと言って、任務に影響が出るようなヘマはしない」



 横を向き、「絶妙に被害者面をするのが腹が立つな」と独り言を溢してから、同期最年長の男は言葉を紡ぐ。



「今までは今まで、これからはこれからだ、明智。貴様は貴様らしく、貴様のやりたいように生きればいいんだ。嫌なものから目を逸らさず、耳を覆わず、何が正しいのか、自分は何をしたいのか、考えて考えて、考え続けろ。そうやっていれば、自ずと答えは見えてくるし、みすみす大事な物を失うようなこともない」



 真っ直ぐこちらを見据えている、奥二重の瞳に吸い込まれそうになる。凛々しく、力強く、どんな嘘や虚飾の中からも、たったひとつの真実を見抜く目だが、奥深くには決して消えない悲しみをたたえている。



「貴様の正義を貫け」



 続いて、真っ直ぐな眼差しと共に浴びせられた言葉に、体に電流が駆け巡ったような衝撃を受け、明智は言葉を失った。




 皇国共済組合基金ビル、営業部執務室前の廊下で、山本は「自分はやっぱり所長に報告に行ってから帰る」と話し、階段の方角に歩き始めた。

 営業部執務室のドアに手をかけた明智は、躊躇し、それでも思い切って、橙色の西日を浴びて歩く広い背中を呼び止めた。


 怪訝な顔をして振り向いた山本に向け、姿勢を正し、見様見真似の挙手注目の敬礼をする。


 精悍な顔に一瞬、驚愕の表情が広がったが、すぐに寂しげな苦笑に取って代わられた。



「全然なっていない。手の角度も、足の開き具合も間違えてるぞ」



 明智の猿真似に駄目出しをすると、最年長の同期はくるりと背を向け、廊下の先へと去って行った。





 諜報員山本慎作は異質である。


 他の一期生の同期たちとは、年齢や社会経験の差だけでは説明のできぬ特別な空気を醸し出している。


 原因は、無番地諜報員のエースである佐々木にも見当がつかないものだが、明智は漸く、朧げではあるものの、山本が『特別』な理由が分かった気がしている。


 山本慎作はとてつもなく大きな悲しみと後悔と共に生きている。


 故に、どんなに楽しそうにしていても、常に悲しげな光を瞳に宿しているのだ。


 だが同時に、彼は途方も無い絶望に見舞われ、一度は地に伏したにも関わらず、立ち上がり、歩き出した。

 悲しみも後悔も、なかったことにしたいことも、二度と手にすることのできない幸福だった時間も、何もかも全部ひっくるめて背負い込み、前を向いて生き続けることを選択した。

 己の正義を貫くため、守りたい人、街のために、彼は力強く前進する。


 個々の事情は多少違うものの、大学を出たり、留学を終え、すぐに無番地の訓練施設に入った自分たちとは異なる訳だ。


 通ってきた修羅場も背負う過去も比べようもないくらいに違う。


 桁違いに器が大きいのも、誰よりも公明正大なのも、強靭な精神を持っているのも、逆境を乗り越えた過去があったからなのだ。


 山本は耐えがたい悲劇的な経験を代償に、鍛えられ、強くなった。



 それでも、だ。



 多分、本人に悟られたら、困惑されるのだろうが、やはり「悲しい」と明智は感じている。

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