3

 無番地新所長、当麻旭は明智たちが寝起きする社員寮の2階で生活している。彼女が赴任するまで、社員寮の2階は空き部屋しかなく、一時的な物置代わりに使われるくらいだった。

 けれども、紅一点の旭が居住するようになり、自然と『2階は男子禁制』という暗黙の了解が諜報員たちの間で広まったため、明智は長らく寮の2階に足を踏み入れていなかった。



 悪いことは何一つしていないのに、空き巣にでも入っているような落ち着かない気分で階段を上り、いくつか並んだドアの中から、『当麻』と厚紙で作った簡素な標識のかかったものを見つけ、ノックをした。


 数秒待ってみたが、返事がない。


 小泉は部屋にいるはずだと話していたが、出掛けてしまったのだろうか。

 もう一度、少し強めに戸を叩いてみたが、やはり返答はなかった。


 留守か。


 安堵と落胆が入り混じった何とも言えぬ気持ちになった。


 それから、最後の念押し、というか駄目元で金属製のドアノブを捻り、押してみた。

 当然、開かないだろうと思っていたので、いとも簡単に扉が開いてしまい、明智は焦った。


 だが、それ以上に焦る事態が扉の向こうに待ち受けていた。


 当麻旭は在室していた。


 窓の外に向かって置かれた事務机の前に座り、大量の資料とにらめっこをしていた。集中し過ぎていて、ノックに気づかなかったのだろう。

 驚いた表情で振り返った彼女は、ドアの前に立つ明智を見つけると、さらに驚愕し、みるみるうちに耳まで真っ赤に紅潮した。


 ほぼ同時に、明智も驚愕し、顔を真っ赤にした。



「すみませんでした!」



 叫びながら、勢いよくドアを閉めた。


 呼吸が乱れ、全身から汗が吹き出て止まらない。


 原因は明らかだ。


 先代所長と良い勝負の気難しい顔で、何やら思案中の当麻旭は、シミーズ一枚の下着姿だったからだ。




「あの、本当、お恥ずかしいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。さっき見たものは忘れてください……」



 数分後、明智は、無事セーターとスカートを身につけた旭に改めて居室に招かれた。彼女は、事務椅子に彼を座らせるなり、深く頭を垂れた。



「いや、返事がないのに勝手にドアを開けた俺も悪かったから。忘れ……るように努力する」



 応じる明智は未だ、彼女を正視できていない。羞恥のあまり火照ってしまった体温もなかなか元に戻らず、汗で湿ったシャツが不快だった。



「誰にも言わないでくださいね」



 言える訳がない。仮に誰かに打ち明けようとしたところで、あの破廉恥な光景を思い出すだけで赤面し、心拍数が増し、失語に陥ってしまいそうだ。

 けれど、精一杯虚勢を張り、上から目線で答える。



「仕方ないですね。新所長としての面目もありましょうし、黙っていて差し上げましょう」



「かたじけない。何て言うか、昔から下着一枚が落ち着くと言うか。部屋で一人で勉強をしたり、考え事をする時は、あの格好の方が頭が冴える気がするのです。明智さんもそうじゃないですか?」



 断じて違うと即答すると、彼女はさらにしょげてしまった。

 落ち込ませてしまったのは申し訳ないと思うが、違うものは違う。パンツ一丁になって、思考が明晰になった経験なんてないし、やろうと思ったこともない。

 恥をかいた女を前に、どんな言葉を掛ければ良いのか、必死に頭を働かせたが、例の如く何一つ名案は思いつかなかった。



「ところで、頭を冴えさせて、何をしていたのですか?」



 早く話題を変えるくらいしか、自分にできることはないと諦め、明智は尋ねた。


 すると、旭は話題転換に幾分ほっとした表情を浮かべ、机の上に広げていた資料を手に取った。



「所長が残していったものの中で、これからの方針を考えるのに、参考になるものはないかと探していたのです。と言っても、こういう仕事ですから、紙の資料なんて殆ど残っていないのですが」



「仕事をしていたのですか? まだ正月二日ですよ」



 人のことは言えた立場ではないが、少し気負い過ぎだと感じた。



「ええ、まあ。でも、非常事態ですし。休んでられません。佐々木さんも手伝ってくれましたし。大丈夫ですよ、大晦日は実家で過ごしましたし。あ、食堂に置いておいたみかん食べましたか? うちの祖母が作ったものなんです。凄く沢山あるから、好きなだけ食べてくださいね」



 わざとおどけた物言いをしていたが、空元気は長持ちしなかったようで、彼女は深い溜息を漏らした。

 十人並みだが、天真爛漫な笑顔が似合う愛嬌のある顔が曇る。



「何で急にいなくなっちゃうかな、ですよ……。せめて、引継ぎはちゃんとして欲しかったです。どんな想いで無番地を作り、どんな未来を描いていたのか。もっとゆっくり、落ち着いて教えて欲しかった」



 失踪事件の際に、所長は旭宛に自身の想いを綴った手紙を残していたし、彼女と佐々木で、復讐を止めた後にも、似たようなことを告げられたと聞く。けれども、どちらも限られた字数や時間の中で、一方的に伝えられただけだ。

 とてもではないが、それだけで彼のスパイマスターとしての志を完全に理解はできないだろう。

 小泉や満島は彼女を所長の意志を継ぐ者と認め、残留を決めたと話していたが、本人も所長の後継者とならなければと思っているようだった。

 しかし、その感情が重荷になっているようにも見えた。

 所長と旭では、年齢も経験も差があり過ぎる。勤続1年目の新米が、今すぐに50代の歴戦のスパイマスターの代わりを勤められるはずがない。例え旭に所長を超える才能が眠っていたとしても、その才を生かせるようになるには、ある程度の時間が必要だろう。

 明日にでも所長と同じくらいになろうと無理をしている彼女は、痛々しかった。


 見ていられなかった。


 同時に無性に腹が立った。


 自分の悩みの答えを探すべく、旭の元を訪問したことも忘れ、明智は懸命に偉大すぎる先代に代わろうともがく、年下の女上司に問いかけた。



「当麻さんは、仮に所長からきちんと全部引継ぎをされていたら、その通りに仕事をするのですか?」



「え? どういうことですか?」



 唐突に発せられた質問に、旭はきょとんとして首を傾げた。



「所長のスパイマスターとしてのあり方を、そっくりそのままあなたも踏襲し、精巧にできた所長の贋物となるのか、と聞いているのです」



 苛立っているせいで、きつい言い方になってしまった。普通にしていても下向きの眉尻がさらに下がり、まん丸の瞳は悲しげに揺れた。



「『贋物』ですか……。明智さんは厳しいなあ。そう言われてしまうと、言い返せないのが悔しいです。でも、多分、皆さんは所長を慕っていたからこそ、命を預け、スパイをしていたのだろうし、何人残ってくれるか分からないけど、ここに残る人は、みんな少なからず、私に所長の後継者になることを期待すると思うんです。だから私には、その人たちの期待に応える義務があります。皆さんの命を預かる以上、私は失敗できない。失敗しないためにどうすれば良いのか考えると、結局、行き着くのは所長なんです」



「無理ですよ、あなたがあのハゲおやじに追いつくなんて。少なく見積もっても、20年はかかる」



「でも、私にはそれが求められて……」



「俺はそんなこと求めていない!」



 思わず大声を出してしまい、自分でも驚き、絶句する。何をこんなに自分は熱くなっているのか分からず、胴間声を発してしまった口を押さえたが、後の祭りだった。

 怒鳴られ、旭は暫く呆然としていたが、やがてその瞳が潤み始めた。が、彼女は眉間に力を入れ、唇を引き結んで何とか持ち堪えた。

 食いしばっていなくても、涙が溢れない確信してから、ゆっくりと桜色の唇が動く。



「どうして、そんなことを言うのですか? 明智さんは、私にどうして欲しいのですか?」



「それは……」



 前みたいに、屈託無く笑っていて欲しい。

 所長がいた頃のように、自信なさげな様子で、自分たちを頼って欲しい。


 どちらも違う気がした。


 自分は彼女に一体何を求め、力になりたいと思っているのだろう。

 答えられずにいると、穏やかな口調で彼女は話し始めた。



「さっきは、皆さんが私にあのおじさんの代わりになることを求めているなんて言ったけど、その言い方はまずかったかもしれません。だって、他ならぬ私自身が、所長の人柄やスパイマスターとしての姿勢を尊敬していて、ああなりたいと思っていたから。酷い別れ方をしてしまったけど、今でも私はあの人を師匠として尊敬しています」



 まあ、もし次に会ったら、一発殴ってやりたいと思いますけど、と茶化す。



「去年の4月、辞令を受けて所長室に挨拶に行った時、私、気張って『お国のために粉骨砕身いたします』とか言っちゃったんです。けど、所長はそれを聞いた途端、『うちには軍国婦人はいらん。本音で言っているなら、さっさと田舎に帰って、見合い結婚して、婦人会の活動でもしてろ』と言ったのです。その上で、『貴様の本当の抱負を語れ』って。どう思われるか怖くて仕方なかったけど、思い切って言いました。『私はスパイマスターになって、戦争をなくしたい』って。自分に何がどこまでできるかなんて、全然分かっていなかったし、正直今も分からないけど、私は諜報活動を駆使し、戦争を未然に防ぎたいのです。戦争で流れる血や涙を減らしたいと思ったから、ここに来ました。当然失笑されるか、女とはいえ、臣民としてあるまじき腰抜けだとなじられるかと身構えていました。でも、あの人は違った」



 丸く大きな目が、真っ直ぐに明智を捉えた。滲んでいた涙はいつの間にか引っ込んでいた。決然とした面持ちに息を飲む。



「所長は『最初からそうならそうと言え。そして、その志を忘れるな』と激励してくれました。顔は憮然としていて怖いままでしたが。この前の失踪事件の時も、所長は私に『これから世界は激しく変化するだろうが、貴様は貴様らしく、志を貫け』と言い残しました。初めてですよ、あんなことを笑わずに、怒らずに聞いてくれて、背中を押してくれた人は。素直にああなりたいと思いました。確かに今の私は未熟で、所長の足元にも及ばないです。けど、私の途方も無い夢を応援してくれたあの人なら、きっと、自分に追いつこうとするなんて無謀だなんて切り捨てないと思うのです。『やれるものなら、やってみろ』と不敵に笑うに違いない。だから、危なっかしいかもしれませんけど、私はやってみたいのです」



 気持ちは分からなくはなかった。先代所長は、諜報員ひとりひとりの個性や考え方を尊重し、最大限に生かすような配置をする天才だった。

 憧れるのも無理もない。


 それにしても、困難だと言っているのに、まだ『やってみたい』と言い張るとは、先代の所長もああ見えて強情だったが、2代目は輪をかけて手に負えないかもしれない。今後を考えると頭痛がする。



「あなたが挑戦するのは勝手ですが、失敗した時に尻拭いをさせられたり、危険に晒されるのは現場の俺たちです。その点はちゃんとお判りですよね」



「勿論。でも、失敗しないようにやりますので、ご迷惑はおかけしません。と言うより、これからは私があなたたちを守ります。春からいっぱい助けて貰って、守って貰った分以上に」



 旭は、明智の意地の悪い質問にも堂々と答え、悠然と微笑んだ。

 まだまだ強がっている感は拭いきれていなかったが、不思議と晴れやかな笑顔で、頼もしいと感じた。

 怒りが氷解していく。


 そして彼は悟る。


 自分は彼女の、こうして途方もない無謀な夢を語り、一生懸命にもがきながらも、周囲の悲観的な予測を裏切り、やり遂げてしまうところが堪らなく好きで、手を貸してやりたいと思ってしまうのだと。


 他の者が言ったなら『馬鹿言うな』と一笑に伏すようなことでも、当麻旭ならひょっとして成し遂げてしまうのではないかと、希望を持てるのだ。


 彼女の語る夢は、明智自身も非常に賛同できるものだった。理想論かもしれないが、いつか共に叶えたいと強く願わずにいられなくなる。


 名の通り、彼女は自分たち闇に生きる諜報員の未来を照らす『朝日』だ。


 自分はこの小さな太陽がずっと輝いていられるよう、尽くしていきたい。



「……何だか、つい熱く語ってしまいましたね。恥ずかしいです」



 何も言わずに黙っていると、旭はふと己の発言を振り返り、恥ずかしくなったのか、笑って誤魔化そうとした。けれども、そう簡単に誤魔化されはしない。


 真顔で大真面目に言ってやった。



「俺は、あなたには、今みたいに馬鹿みたいな夢を恥ずかしげもなく話す鬱陶しい女上司であり続けて欲しい。それがあなたの良さであり、きっと所長もそこに惚れ込んだから、あなたのような経験不足の小娘を、敢えて俺たちの上に置いたんだ」



「褒められているのか、貶しているのか分からないのですが……」



 不服そうに口を尖らす新所長に向け、彼にしては珍しい柔らかな笑みを手向ける。



「両方です。ですから、どうか一人で無理をして、正月返上までして、ハゲの猿真似を続けるのはやめてください。誰かに頼るべき時は、遠慮なく頼ってください」



「ありがとうございます」



 旭は律儀に礼を言い、ふと思い出したかのように、自分の左頬を指差し、尋ねてきた。



「さっきからずっと気になっていたのですが、顔、どうしたのですか?」



「ああ。列車のドアに……いや、弟と喧嘩して殴られた」



 つまらぬ見栄を旭相手に張るのも馬鹿らしく、真実を告げると、彼女は最近めっきり見せなかった無邪気な表情で大笑いした。


 部屋を辞し、気がつく。


 結局、しようと思っていた話は殆どしていないではないかと。

 山本の指摘した通り、自分はつくづく流されやすい。


 でも、そこそこ目的は達成できたように思える。

 2つあった悩みのうちの1つは、旭と話しているうちに自ずと答えが見つかっていた。


 残るはもう1つ。


 自分の進路を決めるのに、他人を理由にしてしまって良いのか、という命題であった。

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