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 長旅を終え、社員寮の玄関に入ると、小泉に出くわした。

 日本人離れした彫りの深い顔の頬はほんのり朱に染まっており、「便所、便所」と即興の鼻歌を歌いながらの登場だ。見まごうことなき酔っ払いであった。


 彼は、大きな旅行用トランクを持った明智を認めると、笑顔満開で片手を振った。



「おおっ、明智じゃないか。あけましておめでとう。もう帰って来たのか? あれ? 顔どうした? 酔っ払って転んだか」



 廊下中に響き渡る大声で、楽しげに話しかけてくる。彼もまた、明智と同じく正念場に立たされているはずなのに、どうして能天気に正月を楽しんでいられるのだろう。頭蓋骨の中は空っぽなのだろうか。



「貴様と一緒にするな。何ていうかその……列車のドアに挟まれただけだ。勿論素面で」



 かなり苦しい嘘だったが、良きにしても悪きにしても大雑把なこの男は、あっさりと流した。元から大して興味なんてなかったのかもしれない。



「何だ? それ。まあいいや。食堂で満島と飲んでいるんだ。おせちの残りや、満島のお母さんが作った汁粉もあるし、みかんが物凄いあるから、貴様も来いよ」



「ああ、後でな」



 荷物を持っていたし、軽薄者2人組と馬鹿騒ぎをする気にはなれなかった。生返事をし、とりあえず旅装を解くため、寝室の方向に足を踏み出したが、骨張った大きな手に肩をがっちりと掴まれる。近寄るとかなり酒臭かった。



「後でじゃなく、今来いよ。どうせそう言って、結局来ないつもりなのだろう?」



「離せ。荷物を置いてから行くから」



 眉間に深い皺を刻み、不快感も露わに拒絶の意を表明したが、小泉はその程度で引き下がるような男ではない。



「荷物、あー荷物ね。これ? 分かった、分かった。運んでやるよ。お帰りなさいませ、ご主人様」



 酔っ払いは、従順な執事のような仕草で一礼し、片目を瞑ってみせると、明智から旅行鞄を強奪し、廊下を駆け出す。



「おーい、満島! 大変だ! 明智が帰って来たぞ!」



 ピシャリと音を立て、食堂の引き戸を開け放ち、室内に向かって叫ぶ。休み時間の教室で、突然の教師の来訪を学級中に伝える小学生男子の如き振る舞いだった。中から、わざと緊迫した風を装った満島の声が返ってくる。



「え?! もう帰って来たのか? 明日までは平気だと思っていたのに。まずい、寝室片付けないとうるさいぞ」



 こちらも異様に大きな音量で、若干、呂律が回っていなかった。相当出来上がっているに違いない。続いて、ドタドタという足音が響き、小泉の開けた引き戸から、2人目の酔っ払いが顔を覗かせた。



「おかえり。あけましておめでと……って、顔どうした?!」



 酔いのせいで、真っ赤に充血した悪戯好きの子犬を彷彿される目が見開かれた。明智の代わりに小泉がへらへらしながら答える。



「列車のドアに挟まれたらしいぜ。酷いもんだよな、正月から。あはははは」



「何だ、それ? 日頃の行いのせいだな、あはははは。面白過ぎて、腹が痛い。新年早々気の毒に。飲んで美味いもん食って忘れろ。そういや小泉、貴様便所はどうした。やけに早くないか?」



「あ、忘れてた」



「忘れるか? 普通。早く行って来い。明智は捕まえておくから」



 つまらぬ漫才のようなやり取りをし、笑い転げている酔っ払い二人に、明智は怒りを通り越し、呆れすら通り越し、絶望的な気分になった。何も考えていないということは、斯くも幸福なことのだろうか。幸福なのは結構だが、彼らのことは全く羨ましくはなかった。




 満島に腕を掴まれ、食堂内に連れ込まれ、視界に飛び込んできた景色は、正しくゴミだめだった。

 テーブルには、酒瓶とコップ、殆ど中身のなくなったおせちの重、つまみの枝豆の殻、駄菓子、汁粉を入れたと思しき漆器の器、たばこの吸い殻がうず高く聳える灰皿、そして、奇妙な剥き方をしたみかんの皮が雑然と飛び散らかっていた。毎晩山本が布巾で丁寧に磨き上げている食事用テーブルの至る所には、ビールや醤油を溢した染みや菓子のカスがこびりついていた。



「好きなところ座れよ。酒は焼酎の水割りでいいか? ワインやビールもあるけど」



 厨房からコップを持ち出してきた満島に問われたが、水で構わないと断り、明智は自ら水をコップに注いだ。泥酔する余裕なんて自分にはない。考えなければいけないことが、山積みなのだから。


 さりげなく汚れていない椅子を探し、腰掛ける。長時間列車の座席に座りっぱなしでいたため、腰の辺りに鈍い痛みがあった。



「はい、お汁粉。うちの母ちゃん特製。さっき温め直したから、まだいけると思う」



 ほくほくと湯気を発している汁粉を注いだ器を、目の前のテーブルに置かれた。持ち上げると、漆器越しに伝わる温もりで、かじかんだ手が解れていく感触にほっとする。



「貴様はもう少し実家にいなくて良いのか? 近くなんだろう? 何なら、実家から通勤すればいいのに。お袋さんも喜ぶだろう」



 満島のご母堂が作った汁粉は、明智の母親が作るものより薄味で、小豆の上品な甘さが際立っていた。

 行儀悪く、手近なテーブルの上に座った満島は、いいの、いいのと言いながら苦笑いをした。



「いくら近くだって、こんな仕事をしているのに実家から通勤なんてできないさ。詮索されても、言えないことだらけだしな。まあ、地方出身の奴らとは違って、ちょくちょく顔は出しているから、正月だからって長居する必要もないかなって。明智、貴様こそ、せっかく仙台まで帰ったのに、もう帰って来たのか? 確か帰ったのも大晦日の夜だろう? 慌ただし過ぎだろう」



「貴様は田舎の旧家の、極め付けに長男として生まれた者が背負わされる枷の重さを知らない。元旦なんか酷いぞ。朝から晩まで、親戚やら近所の奴らやらがひっきりなしに現れ、仰々しい新年の挨拶をし、俺たち家族は、彼らの接待に追われる。その接待業務を取り仕切る家長の右腕になり、いずれは役目全てを引き継ぐことを要求されるのが長男だ。考えただけでうんざりするだろう?」



 実際は、高等学校入学以来、故郷を離れている明智の代わりに、長男が果たすべき面倒な慣習は全て、東北帝国大学医学部で学ぶすぐ下の弟が引き受けている。日頃から、長男の明智が担うべき役割や期待を背負わされている鬱憤が溜まっていたからこそ、親戚連中との宴席でも上の空のまま、最低限の役目すら果たさない兄に、彼も堪忍袋の尾が切れたのだろう。



「何だか大変そうだな……」



 立て板に水で、田舎の旧家の長男の苦労を語ると、東京出身で父親は銀行員だという同期は、やや引いた様子で、相槌を打った。



「そう言えば、小泉は帰省しなかったのだな。あいつは、正月はいつも伊豆の別荘で、豪勢な新年会をしていると言っていなかったか」



 ああ、それは、と満島が説明しかけたところで、引き戸が開き、便所から帰って来た本人が引き継いだ。



「パパが今年はハワイの別荘で年越しだって言って聞かなくて。さすがに、日本の勤め人の年末年始休暇じゃ、ハワイに行って帰って来る時間はないからね。年末、不測の事態が発生したせいで、早めに休暇を貰うのも叶わず、俺はこのボロ屋で佐々木と二人で年越しだよ」



 小泉は酷く残念そうに肩を竦めた。


 例により、どこまで真実なのかは不明だが、小泉の父親はニューヨークを拠点に活躍するアメリカ人経営者で、元はイタリアからの移民だったらしい。扱う商売は、不動産運用から街の用心棒までと多岐に渡る。

 訓練生時代、松田が「それってつまり、ヤクザさんってことですか?」と身も蓋もない質問をしたことがあった。

 その時、イタリア系アメリカ人と日本人妻の間に生まれた彼は、意味深な笑みを湛えて「日本ではそんな呼び方をする仕事が近いのかもしれないな」と答えたため、それ以上は誰も追及できなくなった。

 しかし、ハワイで年越しとは、さすがニューヨークマフィアのドンだ。



「ま、取り敢えず飲もう飲もう! 昭和16年の幕開けに乾杯!」



 仕切り直しとばかりに、やけに明るい口調で言いながら、小泉は明智の肩に腕を回し、ワインを注いだグラスを生水入りのコップにぶつけた。


 が、明智は俯いて、水の入ったコップを見つめていた。


 ノリの悪い同期に、酔っ払いたちが苦言を呈しようとした直前、彼は思い切って先手を打った。



「貴様らは、これからどうするつもりなのか、考えていないのか? 明後日には、結論を当麻さんに伝えなくてはならないのだぞ。よくそうやって、能天気にしていられるな」



 明智の台詞に、二人ははっとした表情をし、顔を見合わせた。漸く自分たちが呑気過ぎると気づいたのかと思ったが、違った。


 二人はほぼ同時に断言した。



「残るよ、俺は」



 小泉も満島も、何でそんな簡単なことに頭を悩ませているのか、と言いたげな表情をしていた。



「……何故、そんな簡単に決められるんだ?」



 何も考えていないからか、それとも、その場、その場の気持ち次第で刹那的に生きているからか、と明智は推測したが、どちらも外れだった。


 まず、小泉はこう話した。



「何でって、俺には、ここ以上の職場はないからさ。パパやママを恨んじゃいないけど、俺には大和魂もアメリカンスピリットもない。中途半端なんだよ。一応、国籍上は日本人だけど、今のこの国の人たちが信じ込まされているようなものを俺は信じられないし、大和民族の皆さんも、俺みたいな存在は求めていない。けど、そんな俺を所長は拾ってくれ、生粋の日本人である貴様らと同じように扱い、俺にしかできないことを沢山やらせてくれた。俺が日本とアメリカ、イタリアとの架け橋になり得ると励ましてくれた。そして、旭ちゃんも所長と同じ考えややり方を受け継いでいる。だから現状、多少頼りなくたって、彼女についていくさ」



 満島は少し恥ずかしそうに話した。



「俺は小泉みたいに、複雑な事情もなければ、大それた野望もない。でも、所長がそうであったように、当麻さんは俺たちを絶対に捨て駒にするようなことはしない。スパイなんて、いざという時は見捨てられるのが常識なのにな。あの人は違う。最後まで俺たちの命に責任を持って、最善の道を模索し、見つけられる人だ。それは春に留置場に入れられた時に救われて、確信している。だからついていくと決めた」



 貴様はどうするのか、と尋ねられた。

 話すべきか迷ったが、明智は思い切って、本心を打ち明けた。



「俺は……ここに残って、当麻さんを支えたいと思う。だが、何故そうしたいのか、正直分からないし、彼女に自分の進退を決める理由を求めて良いものなのか、悩んでいる」



 目を逸らさず、耳を塞がず、常に自分の頭で考え抜き、行動し続けないと、大事なものを失う。


 10月末に、山本からされた忠告は、現在も明智に強烈な影響を与えていた。

 経験者の言葉は心に重くのしかかる。



 意外と考えるべきことはきちんと考えていた無番地の軽薄者2人組は、しかつめらしい面持ちで、生真面目な同期の苦悩に耳を傾け、共に頭を悩ませた。


 暫く考え込んだ末、不意に小泉がいつも通りの軽い口調で提案した。



「そんなに分からなくて悩んでいるなら、旭ちゃん本人とじっくり話してみれば。一人で悶々としているより、建設的だし、彼女のどんなところに惹かれて支えたいって思っているのかも、本人を前にしたら、意外と簡単に分かったりするものだよ」



 躊躇する明智に彼は、上にいるよ、旭ちゃん、と天井を指差し、真っ白な歯を光らせる得意の胡散臭い笑顔を見せた。

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