18

「桐原範子と棚村節子は、一連の騒動が学校側の知るところとなり、謹慎処分を食らう見込みだそうだ。刑事事件としては、加害者家族であり、被害者でもある桐原大佐の懸命な嘆願活動のおかげで、不問になる予定だと、今さっき桐原本人から連絡があった」



 桐原邸から引き上げた日の夕刻、無番地に戻った明智は、執務室で報告書を作成した後、所長室に向かった。


 今日も陰気な面持ちをした所長は、明智を己の机の前に立たせたまま、自分は革張りの事務椅子に深く腰掛け、報告書をペラペラとめくり、ことも無げにそう告げた。



「一体何をしたんだ? 桐原は大層貴様を気に入っていて、娘が卒業したら、くれてやってもいいとまで言っていた。スパイ稼業が結婚の妨げになるなら、何でも好きな仕事を口利きしてやるだと」



「私はただ与えられた任務を遂行したまでです。何もしちゃいないです。あの娘と結婚なんて、丁重にお断りします」



 一生あのお転婆の面倒を見るなんて、遠慮したい。それに、諜報活動から足を洗うつもりもない。範子には同年代のいい男と平凡だが穏やかな人生を歩んで欲しい。

 生真面目に辞退する明智に、所長は鼻を鳴らし、短く笑った。



「心配するまでもなく、俺から断っておいたよ。どうせ貴様がそう答えるであろうことは目に見えていたしな。まあ、気が変わったらいつでも遠慮せずに俺に言え。先方は全く諦めていなかったから」



「気なんか変わりません」



 自分がこの仕事から足を洗う時は、命果てる時、若しくは世情が変わり、無番地自体が存在意義を無くし、消滅する時くらいだ。

 そう簡単に死ぬつもりはないので、恐らく自分はこの先何十年もスパイとして孤独な人生を生き続けるのだと思う。歴史に名を残すことは出来ないが、それが自分で決めた生きる道だ。




 どうなるか不確定な遠い未来のことより、ずっと気になっていたことが明智にはあったので、報告ついでに所長に尋ねてみる。



「そんなことより、2点ほど疑問に感じていたことがあるのですが、よろしいですか?」



「何だ? 言ってみろ」



 所長は、机に頬杖をつき顎をしゃくり、続けるよう促した。



「まず1つ。何故あなたは私にこの任務をやらせたのです。桐原大佐から聞きましたが『一番向いている男を遣わす』とうそぶいたそうじゃないですか。ハッタリにしても、盛り過ぎです。他の奴、例えば満島や松田は子供の扱いが上手いし、佐々木は何に関しても私の上を行っている。彼らなら、もっと早く上手く収めていたかもしれない。結果的には丸く収まりましたが、私は当初の任期以内には終わらせられなかったし、依頼者の大佐が満足してくれてるとはいえ、関係者全員が何かしかの不利益を被りました」



 蝋人形を彷彿させる無表情で、部下の話に耳を傾けていた禿頭のスパイマスターは、途中から露骨に顔をしかめ、明智が話し終わった途端、苦々しげに口を開いた。



「何だ。そんなことも気づかずにやっていたのか。貴様はもう少し自分の特性を自覚した方が良い」



「私の特性……ですか?」



「そうだ。感情の起伏が激しく、不器用で、世渡り下手で、おまけに女が絡むとポンコツになる貴様の特性は、ある種の任務では武器になる。そして、今回は偶々たまたまそういう任務だったから貴様を選んだ。それだけだ。もう1つは何だ?」



 全然合点のいかぬ回答だったが、『これ以上言わせるな』という圧力に負け、渋々もう1つの質問をした。



「桐原大佐は、何故捜査に着手し、証拠が見つかる遥か前から、脅迫文は娘の自作自演だと分かったのですか? 溺愛している娘を疑うなんて、矛盾していませんか?」



 次の質問は愚問認定は免れたようで、所長は淡々と答えた。



「親だから、溺愛しているからこそ、だ。最近の桐原は仕事が忙しく、娘を構ってやれていなかったようだし、扱いにも戸惑っていたようだが、それでも実の娘がやらかしたことくらい、勘づいてしまうのが親というものだ。愛情が強ければ強い程、その勘は研ぎ澄まされ、正確になる。貴様にはまだ分からない理屈かもしれないがな」



 指摘された通り、独身で子供もいない明智には実感に欠けたが、一般論としては分からなくもない話だった。


 それより、妙に実体験に基づいているような所長の話しぶりに、不意に新たな疑問が湧いてきた。果たして、所長には妻子がいるのだろうか。年齢的には年頃の娘や息子がいてもおかしくない。

 また、皇国共済組合基金ビルには、毎日どこか敷地外から通勤しているようだし、実は妻子と暮らす家があるのかもしれない。生活感が全く感じられないこの男が、家族と居間で寛いでいる姿なんぞ、想像できなかったが。



「さて、もう質問はないか? 俺はそろそろ別の仕事に取り掛かりたいのだが」



 受け取った報告書を机上の大きなクリスタル製の灰皿に放り込み、上から火のついたマッチを投げ入れながら、所長は出て行くように仕向けてきた。


 みるみるうちにオレンジ色の炎に包まれ、細い黒煙を上げ、灰となっていく報告書を見つめ、明智は今回の任務が完全に終了したと悟る。



「ええ。もう何もありません。お時間を取らせて申し訳ありませんでした。失礼しました」



 留まる理由もないため、素直に所長室を辞去した。


 後ろ手でドアを閉めた瞬間、ふと範子の声で「ありがとう」と言われた気がして振り向いたが、西日で緋色に染まるリノリウムの廊下には、自分以外には誰もいなかった。



「別れの言葉も告げずにいなくなったんだ。礼なんて言われるはずがない」



 柄にもなく感傷的になり、都合の良い幻聴まで聞いてしまった自分が滑稽で、明智は苦笑まじりに独り言を溢した。

 そして、同僚の諜報員たちが詰めている営業部執務室に向かい、歩き始めた。

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