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 ガツガツ、という表現がこれ程に似合う食べっぷりはないのではないか、という勢いで、山本はライスカレー(知事盛)を食していた。


 通常の3倍はあろうかと思料される分量のライスを、彼は黙々と口の中に放り込んでいく。しかしながら、不思議と大食いの食事風景を見ている時に感じる不快感はなかった。多分、豪快に食べているくせに、妙に綺麗な食べ方をしているせいだ。

 口元にご飯粒やカレーを付けるような致命的なミスも犯していなければ、大分空に近づいているライスカレーを盛った皿の中、既に山本の胃に吸い込まれた一角は、布で拭き取ったかのように食べ残し一つない。


 一人前でもかなりの大盛りのライスカレーに苦戦していた明智は、同期の驚異的な食欲に呆気にとられてしまった。


 無番地の社員寮で食卓を共にしている時には、食べるのが早いくらいの印象しかなかったが、あれはカバーで、本来の彼の食べっぷりはこっちなのか。それとも、食糧事情が悪化しつつあるにも関わらず、精一杯の饗応を提供してくれる店主夫婦を喜ばせようと無理をしているのか。無表情でスプーンを動かす横顔からは判別できなかった。



「ご馳走様でした。美味しかったです」



 明智がぼんやりしているうちに、山本は3人前のライスカレーをペロリと完食した。焦る明智に「ゆっくり食えよ。俺が早食いなだけだから」と声をかけ、ぽっこりと出てしまった腹をさすり始めた。

 その様子を微笑ましげに目を細めて見守っていた店主が、話しかけてきた。



「相変わらずの食いっぷりだな。知事、奥で少し休んでいくかい? その腹じゃ横になりたいだろう」



 山本はお構いなくと辞退したが、結局、是非にと勧める店主に押し切られ、2人して店の奥に消えていった。


 店内には、未だ食事中の明智と店主夫人のみが残された。


 夫と山本が退場すると、夫人はつけっ放しになっていたラジオを消した。ちょうど流れていた勇ましい歌詞の『紀元二千六百年』が途切れ、急に静かになる。

 ラジオを切った彼女は、さらりと愚痴をこぼした。




「私、こういう風情のかけらもない歌嫌いなのよ。『東京ラプソディー』の方がずっと好き。だって、あっちの方が聞いていて、ずっと幸せで楽しい気分になるし、うっとりすると思わない?」



 その通り、と首肯したいのは山々だが、そうすることは、自由闊達な議論の推奨されている無番地の敷地内ならともかく、現在の大日本帝国では望ましくないとされている。

 だから、明智は曖昧に笑って誤魔化した。



「少し前までは、もっと街も活気があって、粋だったのに。『贅沢は敵だ』に『パーマネントはやめませう』って何様なのよ。ネオン規制で繁華街も随分寂しくなっちゃったし」



 気持ちは分かるが、これ以上彼女に好きに喋らせるのは危険だった。どこに監視の目があるかも分からない。

 特高や憲兵隊だけでなく、昨今、政府は国民に、近所に住む者同士と隣組という国民同士の相互監視を目的にしているとしか思えない組織を結成させた。この程度の世情批判でも、密告が趣味のような人間が近所にいれば、すぐに通報されてしまうと聞く。

 好きなことを好きなように言えぬ、世にも馬鹿馬鹿しい時代なのだ、今は。



「知事とは随分親しい間柄なのですね。大分前から行きつけだとは、本人からも聞きましたが」



 さり気なく話題のすり替えを試みると、夫人はまんまと新しい話題に飛びついた。出来の良い一人息子を自慢するような口振りで話しだした。



「あの子は、もうそんな言い方したら失礼だけど、知事はね、子供のいない私たちには息子みたいなものなのよ」



 カウンターに寄りかかり、遠い昔を懐かしむ瞳は優しげで、母性愛に満ちている。例えではなく、本当に山本のことを息子同様に愛していることが伝わってきた。



「彼が初めてこの街に来たのは、もう10年以上前ね。まだ10代だったんじゃないかしら。初々しくて、可愛かったのよ。今じゃすっかり、大人の風格漂う紳士になってしまったけど」



 10年以上前に新宿にやってきたということは、18歳くらいか。どうやら、山本は生まれも育ちも新宿という訳ではないらしい。高等学校か予科に入学するため、上京してきたのかもしれない。

 新宿に近いとなると、早稲田か明治あたりが山本の出身校なのだろう。

 だが何故、本人がひた隠しにしているのかは分からない。母校愛が暑苦しい早稲田出身の近藤に絡まれるのを避けているのだろうか。



「本当によく食べる子でね。大盛りにしてあげても、いつもあっという間に平らげちゃうから、あの子のせいでうちは商売上がったりだなんて笑ったものよ。でも、ある時、早食いなのは、周囲の目を気にしているからなんじゃないかって、主人が気づいて。それから、せめて昼ご飯くらい、ゆっくりさせてあげようってことで、私たちの休憩用の座敷を特別に使わせてあげることにしたの。まあ、結局、本当に早食いだっただけだったのだけど。食べ終えた後、ほんの少しでも昼寝できていたみたいだから、私たちの心遣いも無駄ではなかったみたいよ」



 人の多い時間帯、あの分量を食べていたら、否応無しに他の客の注目を浴びてしまう。10代の多感な青年ならば、気になりもするに違いないと明智は独り合点した。

 しかし、続いて発せられた夫人の言葉に、違和感を覚えた。



「最初の何年かは制服を着ていたからね、彼も。制服姿で長く食事していると、良い感情を持たない人もいるじゃない」



 制服? 高等学校なり予科の学生服のことを言っているのだろうか。明智自身も、大学時代まで学生服に学帽着用だったが、そこまで行動を監視されている実感はなかった。

 本郷界隈では、一高生や帝大生を、地元の人々は将来有望な若者として、多少の粗相も大目に見逃してくれる風潮だったが、土地と学校が変わると、学生に対する目も微妙に違ってくるのか。

 いや、同じ東京府内でそこまで差があるとは考え難い。



「本当に親代わりみたいなものだったのですね。私も東北から上京してきたクチですので、今、おかみさんの話を伺い、彼が羨ましくなりました」



 脳内に浮上している疑問はさておき、半ば社交辞令の相槌を返すと、働き者で人の良さそうな夫人は、満足げに頷いた。



「あらあ、あなたも東北なの? 知事も東北よ。確か、会津の辺りって聞いたはず。あなたはどちら?」



「仙台です」



 実際は仙台市郊外の農村だが、せめてもの見栄で、故郷を問われた時には、仙台と答えるのが明智の学生時代からの方針だ。中学は仙台市内にバスで通学していたし、弟たちは二高、東北帝大に進学し、実家から通学している。父親も市内中心部にある県庁で働く役人だ。殆ど仙台出身ということにして構わないだろうと勝手に考えている。



「そう。いい街よね、あそこも。旅行で何度か行ったことがあるわ」



 いい街と言っても、東北随一の大都市と言っても、所詮地方都市でしかない。帝都には遠く及ばない。故郷に対する鬱屈した感情を押し殺し、もののついでに、歓楽街で聞き込みを始めた時以来、ずっと不思議に思っていたことを尋ねてみた。



「あの、どうして彼は『知事』なんて大それたあだ名なのですか? 『お大尽』とか『旦那』みたいな意味なのですか?」



 すると、夫人はコロコロと心底可笑しそうに笑い声をあげた。



「あら、知らなかったの。『旦那』とかとは違うわよ。あれはね、あの子が自分で……」



「おーい、お前。ちょっといいか? 知事が聞きたいことがあるってさ」



 肝心のところを言いかけた瞬間、奥の間から店主が妻を呼びつける声が響き、夫人の台詞は遮られてしまった。



「すみません。すぐに行かないとうるさいから。はいはーい! 今参ります!」



 胸の前で手を合わし、彼女はパタパタと足音を立て、夫と山本のいる奥の間に引っ込んでしまった。いくら亭主関白の旦那相手とはいえ、話途中の客を置き去りにしてしまうなんて、些か非常識であるし、見ようによっては不用心ではないか。

 知事の友人というだけで信頼されるという証ではあるのかもしれないが。



 今度こそ、静寂に包まれた定食屋の店内で、明智は首を捻った。



「自分で? 自分で『知事』と名乗っていたのか?」



 それが本当なら、随分と自己評価が高いと言うか、厚顔無恥と言うか。あまり自己主張をしない諜報員山本慎作像とは結びつかない。

 冷めた食べかけのライスカレーを前に、山本という同期がさらに理解できなくなった。

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