12

「浮かない顔をしているな。減給が余程堪えたのかい?」



 地下鉄人質事件の翌日の夜。


 皇国共済組合基金ビル敷地内にある道場の縁側に腰掛け、ぼんやりとしていると、やや気障なテノールに後ろから呼び掛けられた。


 振り返ると、徳利と猪口を手にし、柔和に微笑んでいる佐々木がすぐ後ろに立っており、目を疑う。いくら考えごとをしていたとはいえ、人の気配には敏感な自分が、ここまで接近され、声をかけられるまで気づかないなんてあり得なかった。あり得ないことを軒並みやってのけてしまうのが、この旧友なのだが、それにしてもだ。自分の気が緩んでいたと解釈し、さらなる修行が必要だと反省すべき由々しき事案だ。



「また気難しい顔をする。そんなだから、貴様は顔は良いのに女に悉く避けられるのだ。どうだ? たまには、日本酒も良いだろう。十五夜ではないが月見酒も粋だ」



 眉間に皺を寄せている生真面目過ぎる友人のしかめっ面をからかいながら、佐々木は明智の隣に腰掛けた。



「外野の僕から見れば、アメリカ映画よろしく派手にやらかして、機密文書も無事回収。壊した地下鉄車両の修理費を負わされた以外、中々愉快な任務だったと思うがな」



 自称する通り今回の件に関しては、完全な部外者の佐々木は、好き勝手言い放題だった。明智たちの不幸を楽しんでいるようにすら見え、若干腹立たしい。



「……松田の親父さんが何とかしてくれないものか。あいつの家、華族様の家柄の上に、事業で成功して、とんでもない金持ちだって言っていたよな」



「してくれたとしても、自分の馬鹿息子の分だけだろう」



 明智、松田、近藤の3名は警察署で一晩を過ごした後、今朝方、漸く解放された。あくびを堪え、朝日に白む初秋の空気を胸一杯に吸い込もうとしたところ、警察署の正面玄関前で待ち構えていた悪鬼羅刹の如き面持ちの中年紳士に、3人とも(あの松田ですら)縮み上がった。



「この馬鹿共が」



 所長は一言苦々しく吐き捨てると、くるりと背を向け歩き始めた。明智たちは、一様に項垂れ、その後に続いた。



 皇国共済組合基金ビルに帰り、3人纏めて所長室に連行された時も、破壊した電車の修理費は、取り敢えずは立て替えておくものの、3人の給料から毎月少しずつ天引きすると宣告され、松田と近藤が猛抗議をした時も、所長と当麻旭が対処した事件の後始末とその結果を聞かされた時も、結局、誰も最初の『馬鹿共が』以降は叱られなかった。



 禿頭のスパイマスターは、警察署の前での一喝で十分に、馬鹿で無謀な教え子たちにお灸を据えられたと理解していたようだった。





「まあ働き続ければ、借金はそのうちなくなるさ。でも、今貴様が思い悩んでいるのは、別のことなのだろう?」



 手酌で注いだ酒を、佐々木は美味そうに煽った。白磁に藍色の桔梗の模様が描かれた猪口に触れる唇はぽってりとしていて、艶めかしい色気があった。彼は一先ず己の喉を潤してから、もう一つの猪口に澄み切った清酒を注ぎ、明智に手渡した。



「まあ、そうだな……」



 月明かりを猪口の中に広がる小さな湖に照らしながら、明智は曖昧に頷いた。昨晩警察署で青年刑事と交わしたやり取りが鮮明に蘇る。





 あの時。


 警察署の非常階段で、鳴海から機密文書を受け取った若い刑事に文書の引き渡しを拒否された彼は、最早力技で奪取するしかないかと諦めかけた。背広の胸ポケットにさした万年筆に仕込んだ催眠針を刑事の首筋に突き刺そうと、ポケットに手を伸ばした刹那、ふと脳裏に浮かんだ台詞があった。


 それは非常に夢見がちで、理想主義的で、青臭く、三文小説の主人公が如何にも言いそうな綺麗事で、格好の悪いことこの上ないものであったし、年若いとは言え、儘ならぬ浮世の艱難辛苦を散々舐めてきた青年刑事の心にはまず届かないであろう代物だった。


 なのに、気づいた時には、明智の口は勝手に思いついたままの台詞を口にしていた。



「それで、貴様の正義は貫けるのか?」



 言ってしまった瞬間、しまったと思った。階段を上っていた刑事の足がピタリと動きを止めた。振り返った瞬間、お前に何が分かるんだ、とでも罵倒され、殴られるのではないかと身構えた。

 しかし、いつまで経っても、刑事は振り返らなかったし、怒号も上げなかった。中途半端に階段を上りかけた姿勢のまま、彼は静止していた。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。精々1分前後だったのだろうが、体感では倍以上には経過したような気がした。


 低い嗚咽が漏れ、黒の背広を着た背中が小刻みに震えていた。



「……さん、ここでその台詞はないでしょうよ」



 くぐもった涙声で青年刑事は呟いた。件の『特高に未来を奪われた先輩刑事』の名を呼んでいたようだったが、掠れてよく聞き取れなかった。



 それから覚悟を決めたのか、勢いよく彼は振り返った。実直そうな顔は真っ赤に血が上り、双眸から涙の筋が何本も頬を伝い、流れ落ちていた。

 刑事は明智のいる段まで一足で飛び降り、手にしていた封筒を明智の胸に押し付け、絞り出すように言った。



「僕は僕の正義を貫く。あの人に教えて貰い、僕自身が悩み抜いて見つけた正義を。そして、いつか必ず、この腐った組織を内側からぶっ壊してやる。今度は正攻法で」



 鬼気迫る決意表明に、明智は危うく気圧されそうになった。だが同時に、不思議と頼りなげだった青年刑事がひどく逞しく頼もしい革命家の風貌をしているように見え、目を疑った。



「鳴海には、夜道で暴漢に襲われて奪われたと言っておきます。だから、これは中尉がお好きなように扱ってください。一警察官でしかない自分の手に負えるものではないので」



 そう言い残し、青年特高刑事は階段を駆け上がり、去っていった。





「俺は、何のためにこの仕事をしているのか。自分の良心に照らし、正しいと思える道を歩いているのか、分からなくなったんだよ」



 刑事の真っ直ぐで濁りの一切ない瞳の放つ、強烈な眼力を真っ向から受けてしまった時のショックが未だに尾を引いている。道を外れかけた青年に向かって吐いたはずの台詞は、思い切り壁に投げつけた硬球のように跳ね返り、明智自身の心臓に直撃し、現在進行形で鈍痛をもたらしている。



 陰鬱とした顔で落ち込む親友を慰めようとしているのか、佐々木は飄々とした調子で返した。



「また随分と難しい悩みだね。それで居ても立っても居られず、心を落ち着けようと、一人で夜の道場で木刀を振り回してみたけど、気が散って身が入らない。終いには呆然と縁側で秋の月を見上げていたってことかい?」



 彼は明智のもやもやとした心中や衝動的な行動を、一々的確に言語化し、整理してみせた。何の異議も思いつかない。首を縦に振るしか、明智が選べる選択肢はなかった。



「その通りだ」



 肯定の意を伝えると、妖しげな美貌がさらに映える青白い月光を横顔に浴び、旧友は少しの間考える素振りを見せ、口を開いた。



「そんなの、分かっている人なんて早々いないよ。みんな目の前のことをこなすのに必死で、身近にある大事なものを守るだけで精一杯だ。いちいち、これは自分の正義に照らして正しいのかなんて考えていたら、ノイローゼになってしまう。そもそも、その選択が正しかったかどうか分かるのなんて、ずっと先のことで、自分で決められるかすら分からない。そんなことを気にして、身動きが取れなくなるより、今この瞬間正しいと思えることを成し遂げ、積み重ねていくくらいしか、僕らにはできないのではないか」



「今、この瞬間に正しいと思えること、か」



 そうそうと佐々木は首肯する。



「だからそこまで気に病むな、取り敢えず、乾杯しよう。この酒旨いぞ」



 茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、彼は自分の猪口を明智の持つ猪口に軽くぶつけた。陶器と陶器のぶつかる涼しげな音は、不意に吹いた秋風にかき消される。


 喉に流し込んだ清酒は舌触りが滑らかで、果実のような甘い香りがした。体の芯がじわじわと熱くなり、頭が朦朧としてくる。


 自分がやったことが、社会全体から見て、或いは遠い未来から見て、正しいと判断されることなのかは分からない。けれど、相当な無茶をし、仲間を助けに行ったことや、機密文書を取り返したこと、一人の正義感に溢れる将来有望な青年を全うな道に引き戻したことは、正しかったはず、と信じたい。

 心地の良い酔いに急速に意識が薄らぐ中、強くそう願った。




 地下鉄人質事件から約2週間後の昭和15年9月27日、日独伊三国同盟は無事締結された。



 世論は概ね歓迎ムードであったが、この同盟成立が今後の国際社会での日本の立場をどう変化させるものなのか、諸手を挙げて喜べるものなのか、正直明智は判断に窮した。

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