第2話 明智、しらばっくれる

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 昭和15年7月中旬のとある昼下がり。


 皇国共済組合基金営業部執務室には、重苦しい空気が漂っていた。

 いよいよ夏真っ盛りとなり、日当たりの悪い営業部執務室の気温も高めとなり、風の通りが悪いせいで、湿気が溜まり、不快指数は日に日に上昇していた。


 窓を全開にし、ありったけの扇風機を稼働したところで、たかが知れている。

 諜報員たちは暑苦しい上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、腕まくりするなど、少しでも涼を得ようと自助努力をしていたが、それらの対策は無意味とまでは言えないが、暴力的な不快指数の前では、微々たる効果しか発揮しなかった。



 いかなる環境でも常に冷静沈着さを保てるよう訓練された彼らも、あまりに酷い執務環境に、多少気が立っていた。


 が、現在執務室に漂う重苦しく、険悪な空気の主原因は、暑さでも湿気でもない。



「ほら、皆さん苛々していますよ。さっさと自白した方が身のためです」



 中学生と言っても通用しそうな童顔の男、松田は上座にある営業部長当麻旭の机に寄りかかり、島状に並ぶ平諜報員用の事務机に向かっている明智たちに呼びかけた。

 松田の後ろでは、旭が居心地悪そうにもじもじと立っている。


 無番地に所属する諜報員の正確な人数は明智も知らないが、長期・短期を問わず、海外や日本各地で潜入任務中の者も多い。

 けれども、今日は偶々、東京勤務を命じられている1期生の同期8人が一堂に会していた。

 8人の内訳は、明智、佐々木、小泉、満島、広瀬、近藤、山本、それから松田だ。

 松田を除いた7人は暑さに辟易へきえきしながらも、表の仕事である事務や裏の仕事の報告書作成に勤しんでいた。

 そこに、旭を従えた松田が乱入してきたのが、事の発端だった。





 部屋に入ってくるなり、彼はドアの内鍵を閉め、宣言した。



「今から緊急捜査会議を開催します。終わるまで、誰一人としてこの部屋から出しませんので、覚悟するように。すぐに閉会できるか否かは、一部の人の良心に掛かっていますので、お心当たりのある方は、正直に話して下さい。怒りませんから」



 松田はいつも通りの、にこやかだったが、妙な威圧感があった。「怒りませんから」と言っているが、嘘であろうことは、誰もが直感した。

 何だか分からないが、面倒なことになったと各々嘆息した。暑さのせいで、何もしていなくても不愉快この上ない環境下、執務室に軟禁されるなんて、一体何の罰だ。



「あの、松田さん……。私はここまでしなくても良いです。犯人探しなんて、皆さんの士気を下げるだけです」



 これから殺人事件の犯人を告発する名探偵の如く、胸を張り、容疑者候補の7人を観察している松田の袖を、旭が控えめに引いた。

 しかし、彼は毅然と彼女の申し出を跳ね除けた。



「お言葉ですが、当麻さん。泣き寝入りは感心しませんよ。自分が我慢すれば、波風立たずに済むなんて、とんだ自分勝手です。僕は自分を正義だとは思いませんが、悪は嫌いです。あなたがここで被害申告を取り下げれば、悪はのうのうとのさばり続ける。これが果たして社会全体の平和という視点から見て、許されることでしょうか? 悪を許した時点で、あなたも共犯者だ。さあ、皆さんの前で、あなたが遭遇した許されざるべき被害について話して下さい」



 半ば強引に促され、旭はおどおどしながらも、一歩前に出、ことの詳細を語り始めた。どうせろくでもないことに違いないと呆れつつも、一応7人は彼女の言葉に耳を傾けた。



「実は今日の午前中、所長室に中野学校からお客様がいらしたのですが、その時に出そうと思って、昨日の夕方に買っておいた菓子折りが、なくなっていたんです。空箱とお饅頭を包んでいた薄紙が、ゴミ箱の中に捨ててありました。食堂の食器棚のところに置きっ放しにしていた私も悪かったのですが……。お客様には仕方がないので、私が個人的に買っていた羊羹ようかんをお出しするので何とか切り抜けられましたし、お客様と所長に出して余った分は、皆さんに食べて貰おうと思っていたので、そんなに私は怒っていないのですが……」



「いや、怒って良いですよ、そこは」



 被害者の気持ちはそっちのけの名探偵気取りは、渋い顔で言い放った。



「10個も入っていたこまどり饅頭全部を平らげられるって、悪質過ぎるでしょう? どんだけ食い意地が張ってるんですか! しかも、僕の分がないなんてふざけてます!」




 ぷんぷんと蒸気が上がりそうな勢いで、松田は憤っていた。だが、発言の後半部分から、彼が感じているのは義憤ではなく、単なる私憤であることが露呈していた。

 そもそも、表面的な人当たりは良いが、自分が一番かわいい、無番地一、自己中心的な思想を持つ彼が、旭や社会のために怒るなんて、あるはずがないのだ。

 彼の語る正義だの悪だのは、全部詭弁だ。



「松田、つまりは、旭ちゃんが置いておいたこまどり饅頭を勝手に食った犯人を見つけ出したい訳? 貴様は」



 火のついていないたばこを咥え、長い足を見せびらかすように組み替えながら、小泉が尋ねた。西洋人の血が混ざっているのではないかと噂される彼は、人懐っこく、ダイナミックな性格で、細かいことを煩く追及されるのを嫌う傾向があった。

 現に、彫りの深い面長の顔には、「馬鹿らしいことに巻き込むな」と書いてあった。


 だが、松田は小泉の態度に潜む本音なんぞ華麗に無視し、にこやかに首肯した。



「ええ、ご明察です。饅頭の箱は、寮の食堂にありましたから、犯人は昨日から今朝にかけて寮に寝泊まりしていたあなた方7人の中にしかいません。10個入りという個数から考えて、複数犯の可能性も高い。さあ、こまどり饅頭を食べた方は、黙って挙手して下さい。怒りませんから」



 目の前で開始された世にも馬鹿馬鹿しい捜査会議に、明智は尋常小学校時代に起こった盗難事件を思い出していた。あの時も、会議の司会をしていた担任教師は「先生は怒りませんから」と言っていたくせに、長い膠着こうちゃく状態の末、犯人が名乗り出た途端、烈火の如く怒り狂っていた。



「はい、それでは皆さん目をつむって! 心当たりのある方は挙手!」



 従わないと鬱陶しいので、全員目を瞑ったが、薄眼を開けて見てみると、挙手している者は一人としていなかった。


 けれども、この状況を由々しき事態だと憤る資格は明智にはない。


 なぜなら、犯人が全部で何人いるのかは知らないが、少なくとも最後に残っていた1つを食べ、空き箱を分解し、小さく折り畳んで、食堂のゴミ箱に捨てたのは、他ならぬ彼自身なのだから。

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