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 松濤にある桐原邸は、大正期から流行している和洋折中を特徴とした文化住宅風の豪邸であった。

 雨に濡れ、艶やかな光沢を放つ群青色の鱗屋根を見上げ、明智は人知れず溜息を漏らした。


 同じ豪邸でも、江戸時代に建てられ、造りは重厚だが老朽化が激しい、典型的な田舎の武家屋敷である自分の実家とはえらい違いだ。


 瀟洒な細工が施され、白いペンキで塗装された真鍮製の門の前で、蝙蝠傘をさし、お嬢様のおいでを待つ彼の背後には、憲兵隊から借り受けている黒塗りの乗用車が駐車している。


 しとしとと雨が降り注ぐ戸外は蒸し暑く、背広姿は堪えるが、心頭滅却すれば何とやらの精神で我慢する。




 そろそろ出発しないと、朝礼に遅刻してしまう刻限になり、漸く騒がしい話し声と共に、焦げ茶色の玄関ドアが開いた。


 まず、開襟シャツの上に灰色のチョッキを着た私服姿の桐原大佐が現れ、その大きな体躯の影から、半袖のセーラー服を着た女学生が出てきた。



「いいか? 学校に着いたら、寄り道せずにすぐに教室に向かうんだぞ。学校周辺には私服の憲兵を巡回させているから安全のはずだが、万が一のこともある」



「お手洗いに行きたくなったらどうするの? お父様の部下の方を探して、着いてきて貰えばいいのかしら。大きな方をしている間も、ずっと個室の前にいて貰うの? そんなことしたら、お友達が嫌がるわ」



「い、いや……。便所くらいは一人で行って構わない。お父様が言っているのは、勝手に学校の外に出たり、人目がないところに行くなということだ」



「お手洗いは人目がないわ。大変、個室のドアも閉めない方がいいかしら」



「範子ちゃん、お父様が言いたいのは、そういうことじゃなくてだな……」



「じゃあどういうことなのよ」



 大佐は朝っぱらから、ああ言えばこう言うの口達者な娘に振り回されていた。

 憲兵大佐としての威厳どころか、父親としての威厳も皆無だ。



 門前にいる明智と目が合うと、彼はバツが悪そうに顔をしかめた。


 そして、小走りに門まで続く小道を急ぐと、内側から門の施錠を外し、屹立して待っている明智の隣に立った。



「範子ちゃん、この人が、昨日の夜に話した運転手兼執事の明智湖太郎君だ。事件が解決するまで、範子ちゃんの送り迎えと身辺警護をしてくれる人だから、ちゃんと言うことを聞くんだよ」



「初めまして、明智と申します。暫くの間、よろしくお願いいたします」



 大佐の紹介を受け、明智はむくれ面の少女に恭しく頭を下げたが、彼女は不機嫌に鼻を鳴らし、こちらを恨めしそうに睨みつけた。


 その態度に、大佐はこめかみを押さえたが、それだけだった。

 どうやら、挨拶もまともにできない娘を叱ることすらできないらしい。

 情けないにも程がある。



「では、お嬢様。こちらへ」



 車のドアを開け、乗るように促すと、彼女は傘を畳み、大きな革の学生鞄を抱えながら、後部座席に乗り込んだ。


 雨に濡れないよう、傘をさしかけてやったが、会釈一つ返さなかった。



「気をつけて行ってくるんだよ。しっかりお勉強してらっしゃい」



 父親の見送りの言葉を無視し、座席に座った範子は、そのままキッと前方を向いてこちらを見ようともしない。



「あの……すまない。本当は優しい子なんだが、何せ年頃な上に、去年母親を亡くしてからというもの、少し荒れているんだ」



 大佐が言い訳するように、耳打ちしてきた。



「いえ、お気になさらず」



 素っ気なく返し、運転席に乗り込もうとすると、大佐はさらに話しかけてきた。



「明智君、そういえば君の荷物はどこにあるんだい? もし良かったら、うちに置いて行って貰って構わないよ。もう君の部屋の準備はできている」



「トランクの中にありますが、もう出ないとお嬢様が遅刻してしまいます。帰ってから運びますので、お構いなく」



 ああ、そうか、ならば好きなようにしてくれ、と呟いた大佐は、酷くしょげかえっていた。


 明智は、もう少し愛想良く返すべきだったかと一瞬後悔した。



「……車での送り迎えなんて、私頼んでないのに。財閥のお嬢様でもないのに、恥ずかしい」



 車を発進させ、門前で手を振る大佐の姿もバックミラーから消えた頃、範子が呟いた。



「命を狙われているのかもしれないのに、随分呑気ですね。怖くないんですか」



 住宅街を抜け、左折すると女学校方面へ続く大通りだ。

 左折前の安全確認をしながら、明智が尋ねると、彼女は口尖らせ、喧嘩腰で答えた。



「怖くなんてない! はっきり言って、あんな脅迫文を送られたのなんて、今まで数えきれないくらい。あの人はそういう仕事なんだから、仕方がないのよ。でも、それで私たちがテロリストに何か酷いことをされたことは一度もなかった。なのに、どうして今回はこうも大騒ぎするの? 最近のあの人は変!」



 妻を失い、娘を守ってやれるのは自分だけだと気負いしている父親の心を理解するには、まだ、この娘は幼すぎるようだった。


 仮に、明智が桐原大佐の切実な想いを代弁したところで、彼女は煩わしい説教くらいにしか感じず、聞く耳なんぞ持たないだろう。


 うるさい小娘と無意味な言い争いをする利点はない。

 頭が硬く、融通が利かないと同僚たちに揶揄される彼でも、その程度のことは思い至る。

 だから、明智は貝のように押し黙った。


 相手にされず、範子はさらに不機嫌になったようだったが、それ以上突っかかっては来なかった。



 無言のまま、女学校の前に到着し、「学校が終わる頃にまた迎えに行くから、先に帰らないように」と告げると、彼女は「うん」とだけ答えて、煉瓦造りの校門の中に入っていった。




 範子のひょろりと痩せた未成熟な後ろ姿が、無事に校舎の中に消えるのを見届け、明智は車を移動させ、教室棟が良く見える裏口側の路地に駐めた。



 これから下校時刻までは、ひとまず範子の身辺警護は、校内及び周辺に配備された憲兵たちに託せる。


 明智の仕事は、彼らを指揮し、女学校に近づく不審者はいないか警戒しつつも、脅迫事件を解決に導くことだ。

 正直、事件の真相については大まかな予測はついているが、それを裏付ける証拠は今現在はない。仮説を真実に格上げするには、証拠固めに重きを置いた補充捜査が必須だった。


 着手初日の今日は、範子の学校生活や交友関係について、調査・把握し、整理するだけで終わるかもしれない。

 14歳の女学生の一日なんて毛程も興味がないが、事件解決のためには必要な捜査だ。



 蒸し暑い車内で、大きく伸びをすると、暑苦しい上着を脱いで助手席に置いた。

 助手席の足元に隠しておいたトランクから盗聴器材を取り出し、組み立てる。


 雨のせいで、受信精度は些か不良だが、これで範子のいる教室内の音声を盗み聞きできる。


 ヘッドホンを嵌め、チューニングを合わせていると、少女特有の甲高い嬌声が頭に響いた。こんなものを一日中聞かせられるなんて、何の拷問だと苦笑しつつ、明智は神経を尖らせ、雑多に聞こえてくる会話一つ一つに耳を傾けた。

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