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 一両編成の車内は通勤時間帯ということもあり、まずまずの混み具合で、座席は全て埋まり、長椅子型の座席の前にも肩が触れない程度で乗客が立っている具合であった。


 鳴海は乗車すると一目散に、一人の婦人の前のつり革を掴んだ。よく肥え、化粧の濃い30代半ばくらいの彼女は、いかにも成金の妻といった風貌で、デパートに近い三越前か日本橋、或いは銀座辺りで下車しそうだ。

 いつも通りなら、彼は神田から5駅先の新橋で下車する。駅間は短いし、老人でもあるまい。そのくらい立っていても良さそうだが、鳴海は地下鉄に乗ると可能な限り座席に座りたがる傾向があった。


 明智は鳴海とはサラリーマン風の男一人を挟んだ場所に、ちょうど隙間があったので、そこに体を滑り込ませた。隣の男は黒々とした髪をオールバックに固め、上等な生地の背広を着、年齢は30代前半くらいだろう。英字新聞をこれ見よがしに読んでいて、明智に負けないインテリ然とした雰囲気の持ち主だった。


 片手に持っていた新聞を鞄にしまい、横目で、開閉しない側のドア前に立つ、夏服の学生服を着た青年を見る。

 学帽を被り、鞄を華奢な肩にたすき掛けにした彼は、ドアに背中を預け、一心不乱に分厚い本を読んでいた。垢抜けない着こなしで、まだ幼さの残る顔をしかめ勉学に励む姿は、田舎から出て来たばかりの苦学生風で微笑ましかった。

 だが、あくまでそう受け取るのは、彼の正体を知らない者たちだけだ。彼の世慣れし、腐りきった性根も、自分本位で悪辣あくらつな性格も、幼く見えるが、実年齢は明智や佐々木と同学年であることも全て知っている明智にとっては、可愛くも何ともない、ただの羊の皮を被った狼ならぬ悪魔にしか見えない。


 学生服の青年、松田は上野から先に乗車し、鳴海と明智が神田から乗ってくるのを待ち伏せ、場合によっては明智の補助をする手筈になっている。記者という生活が不規則な仕事をしながら、何故か帰りの地下鉄だけは毎日同じ時刻に乗る鳴海の行動パターンあっての作戦だった。


 明智の視線に気づいたのか、松田は顔を上げ、こちらを一瞥したが、何の反応も見せず、すぐに本の世界に戻ってしまったふりを再開した。



 9月とはいえ、帝都ではまだ蒸し暑い日が続いており、冷房設備のない車内は蒸し、人の熱気も加わって暑苦しかった。

 ネクタイを締めない半袖ワイシャツ1枚の松田が恨めしかったが、明智の容姿ではどう頑張っても大学生にすら見えないので、如何ともし難い。

 鳴海も額に汗を玉のように浮かべていたが、ブリーフケースを抱えているせいで両手が塞がっているため、なすすべもなく耐えていた。



 やがて、電車が三越前に到着すると、見込み通り、太った婦人は汗を拭き拭き下車して行った。鳴海は肩がけ鞄を網棚に置くと、大事そうにブリーフケースを抱えて座席に腰を下ろした。そして、上着のポケットから皺だらけのハンカチを取り出し、汗を拭った。


 明智と鳴海の間にいたインテリ風の男が、先程まで鳴海が立っていた場所、現在鳴海が座っている座席の前に移動したので、明智も彼と共に一歩横に立ち位置をずらした。


 正面ではないが、この位置なら的を監視するに不便することはない。つり革に掴まり、窓の外に流れる暗闇をぼんやりと眺めているふりをしつつ、疑惑の記者を見下ろす。


 鳴海のややウェーブのついた髪は汗で湿り、額に張り付いている。ロイド眼鏡を乗せた鼻は脂でテカっており、ふうふうと豚のような呼吸音を鳴らしている。


 ここのところ、ほぼ毎日見ているが、何となく汚らしい中年だと感じた。高級官僚お抱えのエリート記者には見えない。情報漏洩なんていう知能犯よりは、どちらかというと性犯罪の方が似合っている。もし、自分が女で、夜道を一人で歩いている時にこの男に鉢合わせたら、すぐさま回れ右をし、走って逃げるだろう。女の気持ちなんて、基本的に理解不能だが、それくらいは解る。



 特にこれといった異常もなく、電車は定刻通り運行していた。駅に停車する度、幾人かの乗客の入れ替えがあり、その度に明智と松田は神経を研ぎ澄ませ、彼らを観察していたが、怪しげな挙動をする者はおらず、皆人形の如き無表情で黙々と電車の乗り降りを済ませるだけだった。



 レモンイエローの小洒落た車両が、華の銀座の地下を通り抜け、いよいよ鳴海が通常下車する新橋駅に到着する旨の車内アナウンスが流れた時だった。

 急に背後から、怒気を孕んだ若い女の声が耳に入ってきた。



「やめてください。あなた、ずっと私のお尻、触っていましたよね」



 振り返ると、神田で鳴海と並んで電車待ちをしていた水色ワンピースの女が、こちらを憎々しげに見上げていた。


 こんな時に迷惑な奴がいたもんだ、と忌々しく思い、正面に向き直ろうとしたところ、女は何と、明智の上着の裾を乱暴にひっ掴み、無理矢理引き止めた。



「あなたに言っているのよ! 何知らんぷりしているの? ふてぶてしいわね」



 彼女はあろうことか、自分に痴漢の疑惑を掛けている。信じられない、信じたくないことだが、そう認めざるを得ない状況に、彼は頭が真っ白になった。



「え? 知らない……」



「知らないじゃないわよ! 京橋辺りからずっと触ってたくせに」




 鳴海を含む周囲の乗客の侮蔑の視線が一気に自分に注がれる。女は明智と背中合わせで立っていたが、立ち位置や混み具合からして、彼が彼女の尻を触るのは相当不自然な姿勢を取らないと難しい。おまけに明智は片手につり革、もう片手に通勤鞄を持ち、両手は塞がっていた。何より、痴漢なんてやっていない。彼女はどういう訳だか、勘違いをしている。


 漸く事態が飲み込め、冷静さを取り戻した明智は、紳士的な口調を心掛け、怒り心頭のワンピースの女に弁解した。



「被害に遭われたことはお気の毒ですが、私ではありません。私はずっと右手でつり革に掴まり、左手は鞄を持っていました。ほら、無理でしょう?」



 本当は任務の邪魔をされた挙句、不名誉な疑いまで掛けられ、激昂したい気分だったが、穏やかに論理立て、諭したつもりだった。

 けれども、女は明智の弁明なんて全く意に介していなかった。



「言い訳は警察でしなさい! 鞄を持ったまま触っていたのは知っているのよ! さあ、次の駅で一緒に降りて頂戴。駅員に突き出してやるんだから!」



 何故そうなる。やっていないと言っているではないか。犯行が不可能なことだって、きちんと説明したのに。だから女は嫌なんだ。頭に血がのぼると、理屈が通じなくなる。


 周囲に無実を証明してくれる者はいないかと視線を泳がせたが、誰も彼と目を合わそうとはしなかった。関わり合いになりたくないのだ。最後の頼みで、ドア前の松田を見たが、彼は卑劣な痴漢男に対し、純粋な憤りを隠せず、嫌悪感を抱いているような顔つきで、こちらをチラチラと盗み見するだけだった。



 新橋駅のホームに電車が滑り込むと、女は予告通り、明智の服の裾を引っ張り、下車させようとした。


 彼は「急いでいるんだ」とか「やっていないと言っているのに!」と叫んだが、誰も取り合わず、抵抗虚しく、終いにはドア付近にいた中年サラリーマン二人組に「兄ちゃん、いい加減観念しろや!」と怒鳴られ、強引に電車から降ろされた。


 ホームから電車に乗り込もうとする客の波に邪魔にされ、突き飛ばされ、よろけたところをさらに、女からドアから引き剥がすように引っ張られる。



「ちょっ……俺はやっていないって!」



 何とか女を振り切り、車内に戻ろうとした明智の眼前で、無情にも自動ドアは閉まった。ゆっくりと加速し、遠ざかる車窓の中で、松田が唇を微かに動かし、「薄鈍」と呟くのが見えた。


 また、毎日新橋で下車するはずの鳴海がブリーフケースを抱え、座席に座ったままでいるのも、ほんの一瞬、人垣の間から確認できた。



「お客様、どうされましたか?」


 ホームで発車の安全確認を終えた駅員が駆け寄ってきた。


 あまりの事態に放心しかけている明智をよそに、女は毅然とした口調で言い切った。



「この人痴漢です。さっきお尻を触られました」

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