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「……あの、どうされますか? 出発は一度取り止めますか?」



 居心地が悪そうにホームに佇んでいた駅員に尋ねられ、明智は首を横に振った。



「いえ、作戦内容について、詳しくはお話できませんが、予定通りこちらを出発します。迅速なご報告ありがとうございました」



「いいえ、憲兵隊にご協力するのは、鉄道職員、否、臣民としての義務です! お気になさらず。ご健闘をお祈り申し上げます!」



 背筋を伸ばし、頭の先から足先まで、一本の真っ直ぐな芯で貫かれているような気をつけをし、凛々しい眼差しで敬礼をする駅員に、騙して申し訳ないと胸の内で手を合わせる。



「それでは、行って参ります。お勤めご苦労様です」



 敬礼を返し、気を取り直して運転室の先程、立っていた辺りに戻り、改めて出発を促した。

 近藤が制御装置を解除すると、ゆっくりと車体は加速を始める。電車特有の規則的な上下に振動するようなリズムを刻みながら、明智たちを乗せたレモンイエローの電車はぽっかりと口を開けて待ち構える暗闇に吸い込まれた。


 前照灯が使えないため、女スパイが懐中電灯で進路を照らし、徐行運転で慎重に進んで行くしかない。

 明智は近藤と共に前方を注視しつつ、携帯型電信機で松田宛に信号を送り続けた。どうか応答してくれ。御守袋に願掛けでもするかの如く、何度も何度も同じ内容の信号を打電した。


 懐中電灯を掲げている女スパイが時折、不安そうな面持ちで、こちらに視線を寄越したので、その度に「自分の仕事に集中しろ」という気持ちを込め、顎をしゃくった。



 人が徒歩で走った方が早いのではないかと思えるような速度で進行し、通常の倍以上の時間を費やし、隣駅の青山一丁目駅に到着した。

 ホームでは、制服警官や私服刑事が慌ただしく走り回り、解放された人質を地上へと案内していた。捜査本部から連絡を受けているので、彼らは明智たちの乗った車両の到着に気づくと、軽く会釈をしたり、その場で敬礼をしてみせた。

 明智は近藤に目配せをし、一旦電車を停車させる。

 すかさず、女スパイが抗議の声を上げたが、近藤が落ち着き払った声で彼女を諌めた。


「まだ7時まで15分ある。ここにいる警官に現況を聞いても間に合うし、その方が効率的だ。お姉さん、早く相棒を助けたい気持ちは分かるが、急がば回れだ。落ち着いてくれ」



 明智の言うことには全くと言っていいほど聞く耳を持たないくせに、何故か彼女は近藤の説得に納得し、抗議を取り下げた。そんな2人のやりとりを見ていると、明智は無性に苛ついたが、余計な感情は冷静沈着な青年将校の仮面の下にひた隠し、運転室のドアを開け、駆け寄ってきた私服刑事の応対に出た。



「霧山中尉ですね。私警視庁表町警察署刑事課警部補の野村と申します。こちらは見ての通り、解放されたばかりの人質保護でてんやわんやなのですが」



 30代後半くらい、頭のてっぺんが河童のようにはげ落ちている野村警部補は、のっけから慇懃無礼な態度だった。本部からの達しがあったとは言え、憲兵隊の介入が面白くないのだろう。言葉遣いこそ丁寧だったが、語尾を必要以上に切る話し方から、敵意が滲み出ていた。



「まだ犯人と残りの人質を残した電車は、ここと外苑前間に停車中なのですか?」



「ええ。動いてませんね。7時まであそこに居座るつもりなのかもしれません」



「犯人の素性は判明したのでしょうか?」



「いえ、殆ど分かっておりません。見た限り、3人とも、40代から50代くらいの労働者風でした。解放された乗客の話ですと、どこかの会社の労働組合を自称していたそうですが、聞いたこともない会社名だったので、忘れてしまったそうです」



 明智の問い掛けにも、警部補は突き放すような声音で答える。ささやかな抵抗のつもりなのだろうが、萎縮させられてはいけない。情報は出来うる限り入手しておくべきだ。



「乗客の人質は残り3人で、男子学生に30歳くらいのビジネスマン、それから小太りの眼鏡をかけた中年と聞きましたが、何故その3人なのかは、解放された人質から聴取できていますか?」



 発問の仕方が、尋問調で上から目線に取られたのか、不愉快そうに顔を歪められた。



「まだ人質も解放されたばかりで、興奮していて、きちんとした聴取はできていないですが。数人が言っていた話では、学生が犯人側に、人質の人数を減らすよう交渉し、それに残りの2人の人質も同調し、結局、その3人が残留を希望したため、彼ら以外の乗客は解放と相成ったそうです」



 鳴海と外務省の男スパイが松田の作戦に乗ったということか。松田が人質の人数を減らすことで、思う存分車内で暴れ回れるような環境を整え、逆襲の機会を作ろうと考えたのではないかというくらいは想像ができたが、そこに鳴海と外務省のスパイが加わっている理由は分からなかった。

 松田としては、その点は誤算であったのか、或いは、2人が残留を希望してくるのも彼の読み通りだったのか。新橋で早々に電車を降ろされてしまった明智には、現段階で判断をするのは難しかった。



「ところで……」



 眼鏡のフレームを中指で押し上げて位置調整し、兼ねてから疑問に思っていた質問を警部補に投げかけた。



「当該車両は、ここ青山一丁目駅に停車し、50人近くいた乗客を全員下車させた訳ですよね? それなりの時間はかかったはずですし、いくら武装し、爆弾を積んでいる可能性があるとは言え、犯人側はたった3人です。制圧をしようとは思わなかったのですか?」



 明智の指摘に、警部補の眉間に一層深い皺が刻まれ、丸顔に苦悶するような険しい面持ちになった。額や禿げた頭皮には、脂汗が浮き出ていた。



「制圧できましたよ! でもね、本店の特高からしないようにお触れが出てるんですよ! 制圧は渋谷で奴らがやるんでしょうよ! その方が自分たちの手柄になるからな!」



 野村警部補は声を荒げ、レモンイエローの車体を拳で殴った。やり場のない怒りに、彼の金柑のような頭は真っ赤に紅潮していた。



「奴らは市民の命より、自分らの手柄の方が大事なんだ。特高は『天皇の警察官』? 聞いて呆れる。陛下の名前を好きに使って、手柄を独り占めしたいだけなんだ。一般市民だって、陛下の臣民であり、俺たち警察が守るべき対象なのに」



「野村さん……」



 特高警察に対する不満と憤懣ふんまんが抑えきれなくなった上司の背広の裾を、若い刑事が静かに引いて制した。野村警部補は、はっとした表情になり、激情にかられたことを恥じたのか、以降、急激に威勢が弱まってしまった。




「なあ、さっきのデカが言ってた話、どう思う?」



 再び発車した車内で、近藤が尋ねてきた。明智は携帯型電信機で信号を打電しながら答えた。



「別に。噂通りだったのかと思っただけだ」



 うんともすんとも反応しない電信機に舌打ちをし、もう一度最初から信号を打電し直そうとした時だった。掌に握った漆黒の小型電気機器が唐突に振動した。



「来た! 松田だ!」



 待ちに待った反応に、思わず叫び、慌てて、振動の長短や回数を記憶し、頭の中でメッセージに変換した。

 女と近藤が固唾を飲んで待つ中、明智が解読した松田のメッセージは、どんな窮地でも動揺せずに楽しんでしまう彼らしいものだった。



『繋がってる、しつこい。バカ。準備完了。いつでも突っ込め』

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