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 ホームには、駅長の話していたとおり、無人のレモンイエローの車両が1台停車していた。運転室のドアは開けたままになっており、自由に出入りできるようになっていた。明智には専門外なので詳しくは分からないが、ハンドルロック用の鍵も既に鍵穴に差し込んであった。


 明智は真っ先に運転室に乗り込こみ、後から近藤と女が続いた。大人3人が入ると、狭い運転室は、より窮屈に感じられた。



「えっと、さっき有耶無耶になっちまったが、今回の作戦を教えてくれないか? 中尉殿」



 運転席に座り、操作方法を確認しながら、近藤が尋ねてきた。明智は腕組みをし、運転室と客室を隔てる壁に背中を預け、真っ暗な洞穴のような進行方向を見やった。この数百メートル先には、武装したテロリストと哀れな人質を乗せた電車が停車している。そう思うと緊張したが、この緊張は決して不快ではなかった。

 不謹慎だが、武者震いと表現して差し支えない興奮を感じていた。



「まず、テロリストに悟られぬよう、振動が伝わらないギリギリの場所までこの車両を青山一丁目方面へと移動させる。駅間距離から逆算して、それくらい近づけば、こいつが使えるはずだ」



 背広の内ポケットから、掌大の黒い硬質な素材で出来た塊を取り出す。塊の中心には赤いボタンが付いている。

 明智の掌を覗き込んだ近藤が成る程と頷いた。



「何それ? おはぎみたいだけど」



 一人だけ置いてきぼりの女スパイは首を傾げた。これは無番地のみで使用している機器だ。彼女が知らないのも無理はない。



「携帯型の電信機のようなものだ。この中央のボタンをモールス信号よろしく、打ち込めば、電波の届く範囲にある同機種の電信機が、俺が打電した通りの信号を受信し、振動する仕掛けになっている。振動と言っても、持っている本人しか気づかない程度の僅かなものだ。人質の中に混ざっていると思われるうちの諜報員もこいつを持っている。つまり、電波さえ通じれば、テロリストに気づかれずに、立て籠り事件の起こっている車内にいる味方と連絡が取れ、内側から俺たちを手引きさせられるんだ」



「ただ、難点は電波の受信範囲が極端に狭いことと、例え地上から、真下にある地下室に信号を送りたくても、通信障害でまず通じないんだよな。だから、奴が身動きが取れない以上、俺たちが近づいてやらない限り、どうしようもないんだ」



 近藤が明智の説明を補充すると、彼女は目を大きく見開き、携帯型電信機に見入った。



「すごい。うちにも欲しいわ、これ」



「そういう交渉は全部済んでからだ」



 冷淡に切り捨て、続ける。余計なことを話している余裕はないのだ。



「立て籠り車両の方の手筈が整ったら、7時になるのを待ち、向こうの車両が動き出したら、俺たちも一気に追い上げ、追いついたところで、俺があっちの電車に飛び移り、中にいるうちの諜報員、松田という男だが、そいつと協力してテロリストを制圧する」



「ちょっと待ってよ! 制圧って簡単に言うけど、あなたたち武器なんてろくに持っていないんじゃないの? 相手は銃も爆弾もあるし、3人よ。無謀すぎるわ」



 明智の作戦を、女スパイが語気鋭く非難した。何故か忿怒の表情を浮かべている。女の中でも、彼女は特に思っていることが読めない。この任務が終わったら、二度とお近づきにはなりたくないものだ。



「俺も松田も銃火器は持っていないが、最低限の護身用の武器は持っている。そいつで何とかなるさ」



 ああ見えて、松田は強い。素手で大男数人を相手取っても、涼しい顔で瞬殺できる。

 明智も剣道以外に、訓練施設で護身術や逮捕術の類は一通り学んでおり、成績も良かった。

 2人がかりなら、銃を持っていようが、爆弾を積んでいようが、テロリスト3人の制圧くらい造作無い。

 爆弾は確かに大きな懸念材料だが、テロリスト側にとって、最後の切り札である。どうせ使うなら、最も効果的に使いたいはずだ。

 例えば、厳戒態勢の渋谷駅で、捜査関係者を嘲笑うかの如く派手な大爆発を起こす。自らの命も当然なくなるが、無辜の臣民をも巻き込む命懸けの大花火が、大日本帝国政府に与える衝撃は多大なものとなるだろう。

 一見優男の明智と松田が、大した得物もなく襲いかかったくらいでは、伝家の宝刀を抜く程のことではないと敵はなめてかかる。そして、なめられている間に、全てのかたをつければ良いのだ。



 しかし、勝算はあると、順序立て、論理的に説明したにも関わらず、彼女は納得せず、大仰に溜息を吐いた。



「ああ。本当、馬鹿。男って」



 言うや否や、ワンピースの裾をたくし上げる。武闘派を自称するだけあり、しっかりとした筋肉が発達したカモシカのような脚が露わになり、明智は赤面し、慌てて目を逸らした。一方、近藤は「ほほう」と息を漏らし、じろじろと脚を鑑賞していた。



「これ、使いなさい。特別に貸してあげるから」



 女は、太ももに巻いたホルスター付きの革ベルトから、銃を抜き取り、明智に差し出した。



「え? あ?」



 まだ露出したままの太ももが気になり、落ち着かない明智とは目を合わせず、言い訳をするような口振りでまくし立ててきた。



「うちの会社謹製の麻酔銃よ。一発で大型の熊もぐっすりの強力なものだから。弾は5発。無駄遣いすんじゃないわよ」



「あ、ありがとう……」



 顔を背けたまま受け取る。外務省謹製麻酔銃は、本物の拳銃より大分重量は軽く、銃身も深緑色と変わった作りだった。



「別にあんたのためじゃないから。テロリスト制圧と人質救出をより確実にするためだから。それから、赤くなるのやめて頂戴。気持ち悪い」



 悪態をつきつつも、彼女が漸くスカートを下ろしたのが視界の端に映り、明智は、ほっとして仕切り直す。



「では、まずは電波の届く場所まで近づこう。近藤、出せるか?」



「はいよ」



 運転室のドアを閉め、近藤が発車に向け、操作を始めた時だった。一人の駅員が全速力でホームを疾走し近づいてきた。


 発車準備を中断し、ドアを開けると、彼は肩で息をし、呼吸も整わないまま、苦しげに報告した。



「動きが……ありました。青山一丁目に……青山一丁目に、当該車両が到着し、殆どの人質を解放したそうです。現在、車両は青山一丁目と外苑前の間に停車中……。犯人3名と運転手に車掌。それから乗客3名が乗車中とのことです」



「乗客って誰?!」



 駅員と対峙し、報告を聞いていた明智を押しのけ、女が怒鳴った。駅員は彼女の剣幕に怯えながらも、的確に3人の人質の特徴を口にした。



「青山一丁目で対応にあたった警察の方の話ですと、学生服の垢抜けない小柄な少年と眼鏡をかけた40代くらいの恰幅の良い紳士、それに30歳くらいのオールバックのインテリ風なビジネスマンだそうです。3人とも落ち着いた様子だったとも」



「あの人だわ!」



 未解放の人質のうち一人の特徴に、女スパイは悲鳴にも似た声を上げた。

 オールバックのインテリ風のビジネスマンで、地下鉄の中で、女スパイの視点で、明智が仕事の邪魔をしうる相手となると、あの人とは、英字新聞の男のことだろうか。言われてみれば、全身から漂うスノッブな雰囲気がいかにも外務官僚っぽかった。

 残り2人の人質は特徴からして、松田と鳴海に間違いない。松田はともかく、何故鳴海が残っているかは謎であるが。



「おい、これって……」



 小声で近藤が耳打ちしてきた。彼が言いたいことは分かっていたので、黙したまま明智は首肯した。



 松田が動いた。



 それしか考えられなかった。

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