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その夜、翌早朝には速やかに社員寮を発てるよう、荷造りを済ませた明智は、皇国共済組合基金ビル2階にある図書室にいた。
明日から、桐原家に住み込んでの任務になるため、この図書室とも暫し別れねばならない。
図書室から持ち出していた本を返却したり、今回の任務で役に立ちそうな本はないかと蔵書を物色していると、出入り口のドアが軋む音が聞こえ、誰かが入室してくる足音がした。
カツカツと高く響く靴音は、女物のパンプス特有のものだ。
無番地に、女物のパンプスを履いている人物は一人しかいない。
心理学の専門書が並べられた棚の前で、立ち読みをしていた明智は、読んでいた本をそっと閉じる。
足音は彼の立っている棚の一つ手前辺りで止まり、図書室には静寂が戻る。
遠慮がちにこちらの様子を伺う視線に嘆息し、本棚の影に隠れている人物に向け、問いかけた。
「こんな時間に何の用ですか? 当麻さん。俺に用があるなら、隠れていないで出てきたらどうです」
すると、すみません、すみませんと謝りながら、当麻旭がおどおどとした動作で、本棚の影から現れた。
その様子に、短気な明智はイラつきを感じる。
別に自分は怒っている訳ではないのに無意味に謝られるのは腑に落ちない。
「すみません」が口癖になっているだけなのかもしれないが、例え経験は明智に劣る新人とはいえ、上司にあたる彼女から、謙虚を通り越し、卑屈な態度で接しられるのは、却って腹立たしかった。
当麻旭は、今年4月、明智たち諜報員と所長の間にある中間管理職として、無番地に採用されたばかりの新米スパイマスターである。
当麻旭という名前もまた偽名なので、どこまで真実なのかは判然としないが、所長の話では、女だてらに早稲田大学法学部を首席で卒業した才媛で、訓練施設での成績も、運動科目を除いてはトップだったらしい。
だが、確かに凄いのかもしれないが、逆に言えば当麻旭はそれくらいしか評価できる部分がなかった。
さらに言えば、基本的に無番地の諜報員は、皆帝大を始めとした一流大学出身のインテリであり、かつ身体能力も常人を遥かに凌駕している化け物揃いであるため、彼女の誇る輝かしい経歴も、他の諜報員たちに混ざってしまえば、ごく普通で、大したこともない代物だった。
明智たち無番地一期生から見ると一期下の後輩である彼女が、何故、壮々たる男の先輩諜報員たちを追い抜き、最初から管理職候補として採用されたのかは、恐らく所長以外の誰も正確な理由は分かっていない。
訓練施設で1年間の研修は受けているとはいえ、実戦経験に乏しく、それを補う程の実力があるようにも見えず、何より女である彼女を、すぐに上司として受け入れられた者は、流石の無番地にもいなかった。
多くの者が「何故自分たちが、こんな大した取り柄もない学生みたいな女の下につかなければならない」という不満を抱いていた。
旭自身も、己の置かれた立場には居心地の悪さを感じているようで、こうして卑屈な態度で、年上の部下たちの機嫌を伺うような素振りを度々見せていた。
6月になり、紆余曲折はあったものの、諜報員たちの中にも、次第に彼女の美点や指揮官としての潜在能力を見出し、所長に次ぐ上司として認め始める者もちらほら現れてはいたが、まだまだスパイマスターとしての当麻旭は発展途上そのものだった。
「あ、あの。明智さん、明日から暫く留守にされると聞いたので、お借りしていた本を返そうと思って、探していたのです。読書の邪魔をするつもりはなくて……。その、ごめんなさい!」
だから無意味に謝るなと怒鳴りたくなるのを堪え、彼女が恋文のように両手で突き出している本を受け取った。
著者は夢野久作で、書名は『少女地獄』。
これから少女に手を焼かされるであろう明智にとって、何とも皮肉なタイトルだ。
「別に、遅くても来月には帰って来るし、持ってて頂いても構わなかったのに」
「でも、読み終わったから、早めにお返しした方が良かったかなって。明智さん、そういうのうるさ……じゃなくて、きちんとしてそうだから」
本音を隠しきれていない旭に、思わず苦笑する。
彼女にはイラつかされる分、不思議と同じくらいに和ませられる。
野暮ったいスーツに、ぱっとしない髪型、色気も化粧っ気もない十人並みの顔と、悉く女を感じさせない容姿のせいか、どこか憎めないキャラクターのせいか、当麻旭は女嫌いの明智が意識せずに接しられる数少ない女性だ。
5月にあった例の横浜憲兵隊での任務の際、彼女の力添えを受けてからは、こうして本の貸し借りをしたりと、少しずつだが打ち解けられるようになっていた。
実は、二人とも大の探偵小説ファンであったのだ。
「どうでした? 感想は」
「面白かったです。でも、やはり夢野久作は独特過ぎて、彼の言わんとすることを全て読み取れたか自信がないです。乱歩の方が読みやすいですよね」
「まあ、それが夢野久作の特徴ですから。けど、『ドグラ・マグラ』より短編ですし、読みやすかったでしょう?」
「それはもう……」
稀代の奇書の名に、旭はクスクスと笑った。
その笑顔を見た瞬間、鼓動が高鳴り、明智は密かに取り乱す。
こんな冴えない女相手に、何故?
明智の動揺にはてんで気づかず、彼女は不意に笑みを引っ込め、遠くを見るような目で囁いた。
「少女って、不思議な生き物ですよね。自分勝手で自意識過剰で、有り余る若さを持て余し、自分が世界一特別な女の子だと思っている一方で、酷く傷つきやすく、自信がない。私にもそんな時代があったはずなのに、もうあの頃の記憶は酷く朧げになってしまっています」
「少年だって似たようなものですよ。思春期の子供なんて、総じて青臭くて、痛々しくて、脆い。そして、脆いからこそ、虚勢を張る」
記憶の底に沈めていた少年時代の思い出が蘇ってきたが、感傷に浸る気分ではなかったので、思考の隅に追いやる。
「明智さん、頑張ってくださいね。思春期の女の子は難しいから」
徐に旭が言った。心配そうな面持ちをしている。
「俺にかかれば、頑張る程の案件ではありませんよ。正直、もう着地点はほぼ見えている」
ならいいですけど、と言葉を濁してから、彼女は思い切った風な表情で切り出した。
「あの、私には強がらなくてもいいですよ。不安ならそう言ってくれればいいし、相談にも乗ります!」
何だ?急に。
強がりではなく、本当に今回の任務には大して不安要素は感じていないのに。
怪訝な表情をしている明智を前に、旭は鼻息も荒く続けた。
「実は、さっき小泉さんが心配していたんです。明智さんは、性別が女というだけで、小学生女子にも緊張しちゃうから、14歳の女学生とまともに話せないんじゃないかって。本当、一人で抱えてはダメですよ!」
頬が無意識に引き攣り、大雑把で冗談好きのふざけた性格の同僚、小泉に対する怒りがふつふつと湧いてきた。
食堂で呑んだくれているであろう小泉を、今すぐにでも取っ捕まえ、抗議せねば気が済まない。
「当麻さん、お願いだから小泉の言うことを真に受けないでください。女が苦手なことは否定しませんが、任務で必要なら話せますし、いくら何でも女の子供相手に緊張はしません」
努めて冷静さを保ち、否定したが、旭は未だ不安そうな面持ちで自分を見上げていた。
誤解を解くためにも、何としてもこの任務は早期円満解決を目指さねばと、明智は胸に固く誓った。
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