11

 何事もなく1日を終え、後は寝るだけとなり、ベッドに仰向けに寝そべり、読書をしているとノック音が聞こえた。



「ねえ、少しいい?」



 ドア開けると扉の向こうには、ネグリジェ姿の範子が立っていた。

 緊張した面持ちで明智を見上げ、腹の前あたりで両手を何度も組み直している。



「構いませんが、リビングに行きますか?」



 桐原大佐は仕事からまだ帰ってきていない。

 ぬい刀自は、夕飯の片付けを終え、玄関横にある自室で、主人が帰るまでの仮眠に入っている。

 この家で起きているのは、明智と範子だけだった。

 間違いなんてあり得ないが、疑われるようなことは避けるべきだし、隠しているとはいえ、スパイ道具の置いてある客間には、誰も立ち入らせたくなかった。


 しかし彼女は、むっつりと口を引き結び、首を横に振った。



「リビングは嫌。明智と2人で話したいから。それに、ぬいさん起こしちゃうかもしれないし」



 初めて範子に名前を呼ばれた。

 当然のように呼び捨てなのは、まあ我慢しよう。



「そうですか。では、お嬢様のお部屋に伺いましょうか?」



 深夜に少女の部屋を訪ねるのは、紳士として如何なるものかと思ったが、自分の居室に入られるよりはマシだった。

 拒否されたらどうしようかと懸念したが、彼女はあっさり提案を受け入れた。



「ええ、そうして頂戴」



 言うや否や、方向転換して進み、明智の部屋の隣にある自室のドアを開けた。



「入って。もう遅いし、お父様がいない時の方がいいの」



 失礼、と断り、子供部屋に入る。

 ざっと見渡した限り、昨日入った時と変わったところはなさそうだった。

 導かれるまま、座卓の前に、向かい合って座る。



「どうされたのですか? こんな夜遅くに」



 腰を下ろしたものの、落ち着きなく視線を泳がせている範子に問いかけた。



「……」



 いざ明智と対峙したものの、何かに逡巡している様子の彼女は、無言で俯いてしまった。

 子供っぽさを残した柔らかそうな手は、ガーゼ生地でできた寝間着の膝辺りの布をぎゅっと握りしめている。

 彼女は明らかに何かを明智に伝えたがっていた。

 でも、踏ん切りがつかない。

 こういう時は、わざと世間話を振り、先にこちらの胸襟を開いてしまい、相手の警戒心を解き、何でも話しやすい状況を作り上げてしまう方が良い。

 急がば回れ、時には遠回りが近道になると、先月の任務で学習したばかりだ。



「そういえば、お嬢様は節子さんと仲良しのようですが、私にも親友と呼べる男が一人いるのです」



 明智の唐突な発言に、範子は「え?」と怪訝な顔をしたが、構わず続けた。



「高等学校時代に知り合ったので、もう長い付き合いです。これがとんでもなくできる男でしてね。私は彼に勝てたことが一度たりともない。見た目は、映画俳優顔負けの彫刻の如き美男子ですし、頭も切れる。運動も何をやらせても1番です。立ち居振る舞いに品があり、東北から出てきた田舎者だった私に、帝都の歩き方や紳士らしい振る舞いを教えてくれたのは奴です」



 執事明智湖太郎は、嘘偽りで塗り固められているが、この話は全て真実だった。

 人の心を掴むのに、真実ほど役に立つものはないのだ。



「そう。凄いお友達がいるのね」



 返ってきた相槌は釣れなかったが、根気よく話す。



「ええ、自慢の親友ですよ。まあでも、彼の一番凄いところは、10年近く私なんかとつるんでくれているところなのかも知れません。私が彼にしてあげられることなんて、ありませんから」



「それは違うわ」



 コンプレックスを自ら開示する自虐の混ざった発言を、範子は真っ向から否定した。

 迷いのない、いつもの気丈な彼女らしい強い語調だった。



「何か利益があるから友達をやっている訳じゃない。一人でいるのは寂しいからとか、勉強を教えて貰えるからとか、流行りの小説を貸して貰えるからとか、そんな理由でお友達付き合いをする子もいるけど、少なくとも私とせっちゃんは違うし、多分明智の友達も違う。明智は自分で気づいていないだけで、その友達も明智から色んなもの貰っているのよ。実益があったり、目に見えるものではないのかも知れないけど、明智と一緒にいて楽しいから、大事にしたいと思えるから、ずっと友達でいてくれているんじゃないの? そうやって卑屈になられると、友達は悲しいと思う。だって自分の気持ち、全然明智に伝わってないじゃない」



「あ、うん……そうだと、いいのですがね。すみません、卑屈でしたね」



「そうよ。もっと自信持って生きなさい」



 先程までの元気の無さが嘘のような勢いに気圧されかけ、明智は慌てた。まさか14の子供に説教をされるとは。

 自分から話題を振っておいて、範子のペースに飲まれかけている。このままでは、わざわざ迂回した意味がない。

 これ以上、この話を続けるは適切でないと判断し、話題転換を試みた。




「まだお若いのに、そこまで友情について語れるなんて素晴らしいです。ところで、今日は宿題は大丈夫だったのですか? お手伝いしませんでしたが」



 お嬢様は、ツンケンした口振りで答えた。



「別に毎回誰かに手伝って貰わなければならない程、私は劣等生ではないわ。それに今日はお裁縫の宿題しかなかったから、あなたには無理よ」



 そんなことはない。無番地の訓練施設では、潜入任務に役立つよう最低2つの職業訓練が必修である。明智は洋服屋と新聞記者の訓練を選択したので、裁縫はお手の物だ。

 範子には、明かす必要もない余談でしかないが。



「左様ですか。ならば、安心しました」



「これでも裁縫は得意なのよ。せっちゃんにお揃いの手提げバッグを作ってあげたりもしたし、お兄様の制服の裏にこっそり刺繍ししゅうをしてくれと頼まれたこともあるわ」



「それは素晴らしい。お兄様はさぞやご自慢に思われているでしょうね」



「え、ええ」



 他愛もない自慢話への適当なお世辞に、範子は表情を曇らせた。

 暫し、座卓の木目をぼんやりと見つめ、独り言のように呟く。



「……お母様が生きていた頃は、ね」



 何だか急に湿っぽい空気になったが、資料には書かれない桐原家の内情を知る好機だった。

 はやる気持ちを抑え、明智は心配そうな表情を作り、首を傾げ詳細を話すよう仕向けた。



「お嬢様?」



 視線を伏せたまま、彼女は語った。



「お母様が亡くなって、うちの家族はバラバラなの。お父様は前以上にお仕事ばかりだし、お兄様も学校がお休みの日でも、うちに寄り付かない……。こうやって、夜に誰かととりとめもないことを話すのだって、1年以上していなかった」



 思惑通り、範子の口から桐原家の抱えるわだかまりを聞くことは叶った。

 でも、目的達成後に得られる快感は全くなかった。理由ははっきりしている。

 寝間着を握りしめる彼女の手には、さらに力がこもっていたし、黒々とした睫毛が淡雪のように柔らかな頬に影を落とし、桜色の唇はきつく引き結ばれていた。


 こんな時、自分はどんな行動を取るのが正解なのだろうか。

 小泉や満島だったら、きっと「寂しかったんだね、範子ちゃん。でももう大丈夫。俺がいるからね」などと軽薄な台詞を吐き、ピンクのネグリジェを着た肩を抱き寄せるに違いない。

 任務関係者に、軽々しく恋愛感情を起こさせるが如き行いをするなと注意されれば、彼等は平然と反駁はんばくするだろう。


「悲しそうな女の子を抱き締めない方が、男として不誠実さ」


 違う。これは明智の価値観とは相容れない。

 責任の取れない、取るつもりのない優しさなんて、優しさでも何でもない。


 では、あいつならどうする? 学生時代から途切れず、無番地でも先頭を走り続けるあいつなら。

 明智は親友の恐ろしい程に整った顔を思い描いたが、頭の中の彼は苦笑し、言い捨てた。


「自分で考えなよ。何がベストかなんて、時と場合、人によって毎回違うものさ」



 軽く深呼吸をし、明智は範子に問いかけた。



「その気持ち、お父様やお兄様に話しましたか?」



「え?」



「寂しいって、ちゃんと二人に言葉で伝えましたか?」



 そんなのできる訳ないじゃない、と範子は絞り出すように言った。



「気持ちは言葉にしないと伝わりませんよ。『言葉なんていらない』なんて綺麗事です」



 俺が言えたことでもないと思いつつも、面の皮も厚く、自分のことは棚に上げて言い切る。大人として、至極真っ当な意見を。

 どんな時も、雰囲気を察せずに正論を言えるのが自分の強みだ。

 これが自分の、元気がない女の子にしてやれるベストだ。



 彼の言葉に、少女は目を剥き、やがて不愉快そうに鼻を鳴らした。



「お説教はいらない。もう遅いし、寝るから帰って頂戴」



「それは構いませんが、何か私に話したいことがあったのでは?」



「別に。無駄話して暇潰ししたかっただけよ。でも、頭にきたから今日はもういいわ。明日またいらっしゃい」



 範子は立ち上がり、仁王立ちで明智を見下ろした。

 今自分は彼女に好かれているのか、嫌われているのか、どうもこの娘の心は読みにくい。

 ただ、一つだけ言えることは、今夜に限って言えば、自ら積極的に話し、相手につけ入り、重要な告白をさせる作戦は失敗したということだ。

 桐原家の内情情報など、多少得られるものはあったが、核心には迫れなかった。

 功を急ぎすぎたか、或いは、前例踏襲に拘りすぎたか。

 反省すべきところは多々あるが、まだ焦る段階ではない。明日以降も引き続き地道に進めよう。



「さあ、早く帰ってよ!」



 ぷんぷんという擬態語が聞こえてきそうな有様の範子に腕を掴まれ、明智は廊下に放り出された。



 貴様は本当に女の扱いが下手だな、と誰かに言われた気がして、彼は苦笑いし、反論した。



「誠実なんだよ、俺は」

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