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 明智の指摘に女は不敵に微笑み、小首を傾げた。

 通路には人の出入りが多いターミナル駅にも関わらず、偶然にも明智と女の2人しかいなかった。



「外務省? スパイ? 私がってことかしら。何のことだかさっぱりね。あなた、神経を病んでいらっしゃるのかしら? 神経質そうですものね」



 労わるような口ぶりでとぼけられたが、構わず続けた。



「その帽子についたカメラ、うちの技術者が作って、外務省に卸したものだ。主に在外公館にいる外交官向けを想定していたが、帝都で実際に使われているところにお目にかかれるとは思っていなかった」



 予想した通り、『うちの技術者』という言葉に女の細い眉がピクリと反応した。彼女の付けているブローチ型カメラは、外務省から注文を受け、無番地にて開発し、相当数売り付けた特注品だ。表の予算報告には出ない極秘扱いの売買だったが、外務省内で諜報任務に当たっている者のみ、新しい諜報道具の出所を知らされていると聞いていた。因みに、開発者は言わずもがな広瀬だ。



「俺にわいせつ犯の容疑を掛けたのもわざとだな? お宅らはお宅らで、例の物を奪還しようとしていた。身内の不祥事はできるだけ身内で片付けたかった。違うか?」



「……」



 女は俯き、唇を噛み締めて黙り込んだ。



「さあ、フィルムを渡せ。さっき事務室で、俺の顔を撮影しただろう? あまり有名になるのは避けたいのは同業者なら、分かるよな」



 高圧的に迫ると、観念したのか、彼女は帽子を脱ぎ、ブローチ型のカメラを外した。そして、ブローチを乗せた右掌をおずおずと差し出した。


 が、受け取ろうと手を差し出した瞬間、帽子とハンドバッグを持った左手を、明智の頸動脈を狙い、下から突き上げてきた。

 滑稽な程に計算通りの反応だった。

 女の繰り出してきた突きを、明智は通勤鞄ではたき落とした。帽子とハンドバッグともう一つ、銀色に光る針先が何とも攻撃的な注射器が床に落下する。



「あっ!」



 突きを防御されたことよりも、ハンドバッグを取り落としてしまったことよりも、注射器を見られてしまったことに彼女は動揺したのだろう。咄嗟に右手に握っていたブローチを放り投げ、ころころと床を転がっていく物騒な医療器具に飛びつこうとした。

 しかし、その前に明智は注射器を踏み潰し、悠々とブローチを回収した。



「ここで派手に争うのは、得策ではない。いつ人が通るかも分からない」



 中腰の姿勢で呆然としている女の耳元で囁いた。今はたまたま電車の発着時間の狭間なのか、運良く人通りはないが、それもほんの一瞬のことだ。いくら他人に無関心な都会人とはいえ、若い男女が文字通り格闘していれば、注目するに決まっている。



「俺たちは最終目標は同じはずだ。無駄な同士討ちは賢くないぞ。現に、貴様のせいで俺は大分予定に狂いが生じている」



 床に落としたままになっていたハンドバッグと帽子を拾い、渡してやると、彼女は目を吊り上げ、憤然と鼻を鳴らした。



「こっちだって、あんたのせいで色々狂ったのよ。自分だけ被害者みたいな言い方しないで」



 ハンドバッグと帽子を奪い取ると、彼女は肩を怒らせ、ハイヒールを逞しく踏み鳴らしながら、ホームに続く階段を降りて行った。



 明智も彼女の後を追い、階段の最上段に立ったところで、眼下に飛び込んできた景色に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 階段の途中では、水色ワンピースの女スパイも立ち尽くしている。

その視線の先にあるプラットホームでは、大きな乗り換え駅だということも加味しても説明がつかない程の人数の乗客が列をなし、電車の到着を今か今かと待っていた。


 理由は不明だが、明らかにダイヤ乱れが発生している光景だった。



 先ほど彼女を呼び止めた通路が、異常なくらいに閑散としていたのも納得できる。降りるべき乗客が到着していないのだから、そりゃ人通りも少なくなる。


 兵馬俑の土でできた兵士の如く、しかめっ面で整然とホームに並んでいる乗客たちは、あまりに遅い電車の到着に業を煮やし始めていた。皆行儀良く並んでいるが、心中は暴動を起こしかねないくらいに苛立っているだろう。



 すると、タイミング良く駅員による構内放送が流れた。



「お客様にお知らせいたします。現在、先行電車が赤坂見附駅、青山一丁目駅間で原因不明ですが停止しているため、後続電車の運転も不可能になっております。復旧の見込みはございませんので、誠に申し訳ありませんが、省線等他の交通機関への振替輸送にご協力ください」



 音が割れている上、滑舌の悪い発声法で聞き取りづらかったが、確かにそう言っていた。

 放送を合図に、ホームにいた客たちが列から離れ、ぞろぞろと階段を上り始める。


 ついていない時はとことんついていない。


 仕方がない。地上から松田と合流するしかないと思いかけ、ふと腕時計を確認する。電車が正常に動いていれば、鳴海と松田を乗せた電車は、終点の渋谷に到着しているくらいだ。

 原因不明の地下鉄停車事件が発生する前に、2人が下車している可能性もなくはないが、楽観的に考える根拠はない。

 事件が発生したのは、ホームに溜まっている人の数や、明智と女が駅事務室に通された時には、特に異常事態が起こっているような様子はなかったことから、報せが各駅に入るタイムラグを考えても、少なく見積もって10分以上は前になるだろう。

 それから逆算していくと……。


 明智が閃いた瞬間、水色ワンピースの女が階段を駆け上がってきた。彼女は勝気な瞳で明智を見上げ、声を低めて囁いた。



「原因不明で停車している電車って、的の乗っている電車の可能性があるわ。お互い災難ね」



 それにしても、原因不明の停車とは何だ? しかも駅と駅の間という中途半端な場所で。地下鉄で駅間で人身事故なんてあり得ない。


 嫌な予感がし、明智は元来た道を引き返し、駅事務室を目指した。別に着ついてこなくて良いのだが、ハイヒールの靴音が後ろから追いかけて来た。

 改札周辺は振替希望の乗客でごった返しているようだったが、事務室に入ろうとする客はいなかった。

 迷いなく事務室のドアをノックしようとしたところを、女に引き止められた。



「待って。まさか運転中止の理由を聞こうとしているの? 仮に何かまずい事態になっていたとしても、私たちはただの利用客よ。まずければまずい程、本当のことなんて教えて貰えないはず」



 彼女は得意げな顔で、一般常識をひけらかした。全く、こんな機転の回らない女をスパイとして使っているなんて、つくづく外務省は詰めが甘過ぎる。何の策もなく、一般人として乗り込む訳がないではないか。



「心配しなくても秘策はある。それより俺に付き纏うのをやめてくれないか。仕事の邪魔だ」



「付き纏ってなんかいないわよ。誰があんたみたいな、神経質眼鏡」



 演技ではなく、心から不愉快そうに吐き捨てる女を無視し、明智は事務室のドアをノックし、返事を待たずに開け放った。

 女が自分も一緒に入ろうとしたが、その前にドアを閉め、後ろ手で施錠する。

 室内にいる駅員たちが何事かと振り返る。皆一様に青ざめた顔をしていた。



「あんたさっきの……。電車なら悪いけど、放送した通り動いていないから、省線でも市電でも使ってくれないか?」



 数人の部下に囲まれ、自身の事務机の前で頭を抱えていた助役が力無く応じたが、明智は通勤鞄の中から掌大の手帳を取り出し、事務室内にいる駅員全員に見えるよう掲げた。



「東京憲兵隊中尉の霧山だ。原因不明の停車とはどんな状況なのか。説明しなさい」



 彼が掲げるのは、泣く子も黙る天下の憲兵手帳に他ならなかった。広げた頁には、軍服姿の明智の写真が貼り付けられ、『憲兵中尉 霧山利行きりやま としゆき』と記されていた。


 変質者だと疑われていた青年の意外な正体に、駅員たちは縮み上がった。その有様に、明智はそっとほくそ笑む。

 勤め先の上司に変質者疑惑を知られるのを渋ったのが、予期せず功を成した。憲兵隊のエリート将校だったから、意固地に拒否していたのかと、勝手に納得されているのが手に取るように分かる。


 この手帳は、広瀬作成の偽造品ではなく、東京憲兵隊の桐原大佐から直々に贈られたものだ。書いてある内容は嘘八百だが、手帳本体や認証の角印は真性である。もし、東京憲兵隊に『霧山中尉なる者は在籍しているか』と問い合わせをされても、『確かに在籍している』と答えて貰えるように話はついている。

 今後の諜報活動の役に立てばと、今年8月に大佐に再会した際、渡された逸品だったが、早くも有効活用できる機会がやって来るとは、人生分からないものだ。



 明智の嘘にすっかり騙された助役は、手のひら返しも鮮やかに、へこへこお辞儀をしながら進み出で、状況報告をした。



「実は、件の駅間で停車中の車両ですが、過激派のテロリストが占拠をし、乗員・乗客を人質に立て籠もっているそうなんです。要求は天皇制廃止と近衛総理の退陣です。要求を拒否したり、19時までに回答がないなら、交渉決裂と見做し、電車を走らせ、終点の渋谷に到着後、電車ごと爆破すると脅しています。警察にはもう連絡済みで、青山一丁目以降の駅には警官隊が出動し、待ち構えていますが、車内に爆薬を積んでいる可能性があるため、迂闊に手は出せないのではないかと。地下鉄の線路には高圧電流が流れているため、隣駅から徒歩で警官隊が乗り込むのも危険です」


 覚悟していたものを遥かに超えた状況に、目眩がした。

 要求内容からして、テロリストは過激派左翼団体なのだろうが、そういった連中と鳴海が繋がっていたとの情報はない。

 人質事件は、三国同盟関連の機密文書漏洩事件とは無関係の別件と思われる。


 事務室の壁に掛けられた時計を見上げると、既に午後5時40分を示していた。

 約束の時刻まで1時間半を切っている。残された時間は少ない。

 もし、トンネル内で電車を爆破されたら、人質の生存は絶望的になるし、渋谷駅で爆発が起これば、時間的余裕がある分、駅周辺にいる人々を巻き込むことこそないものの、乗員・乗客が犠牲になるのは変わりないし、ホームを内包する百貨店も甚大な被害を受けるだろう。

 けれども、テロリストの主張は到底受け入れられる訳のない、突飛なものだ。政府が応じるなんて万に一つもないだろう。



「テロリストに占拠された電車とは、もしかして私が乗っていた電車ですか?」



 苦々しい想いを押し殺し尋ねると、助役はゆっくりと首肯した。

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