12

 ある女性が暗闇の中に横たわっていた。意識はなく、すやすやと眠りこけていた。ただその姿は手足を縛られ、さるぐつわを噛まされていた。

 正午近いこの時間帯にこの女性が眠りこけているのは、この女性が昼夜逆転生活を送っているわけではない。ある薬物を使われ意識を失っているのだ。けれど使用された薬物の量が少なかったのか徐々に意識を取り戻しつつあった。

 女性が意識を取り戻すキッカケにとなったのは人が話す声が耳に届いたことだった。半覚醒状態の女性が完全に覚醒するまでは時間はそうかからなかった。手足が思うように動かなかったことで急速的に頭が回り始めたからだ。

 女性が聞こえた声に耳を澄ます。すぐに聞き覚えのある声だということに気づく。それは女性の家族ともいえる男性の声だった。

 女性は原田杏子といった。杏子の実家はいわゆる極道一家である。地元じゃ知らない者はいないほど幅を利かせていた。地元の顔役としての役割も引き受け、地元でも愛されていた極道である。その組員も、柄は悪いが組の評判を落とすような真似をしでかしてしまったら焼き入れられるので警察沙汰もよそに比べれば相当少ない。

 今聞こえた声は杏子にとって兄のような存在の男のものだった。その男は現在本部長という役職についていて、組に入った当初から杏子の教育係を任されていた。年もそう離れておらず、本当の兄妹のように親しかった。そんな男が自分のことを攫ったことが杏子には信じられなかった。

 その男は今回の婚姻に反対していた。いや、婚姻以前から夫となる悟史が歴史ある極道一家に相応しくないと猛烈に反対を表明していた。結婚の挨拶しに悟史が訪れた時、誰よりも早く悟史を殴り倒し追い返した。同様に一度は娘の夫となる人物を殴って追い返したいという密かな夢があった杏子の父親の落胆ぶりは見ていて物悲しくなったほどだった。もちろんその男は内々で組のお偉いさんに数時間にも及ぶ説教と体罰を喰らうこととなる。

 杏子はハッとする。

 そういえば今日はその結婚式ではないか、と。正午からだったはずだが今は何時だろうか。これから衣装に着替えようとしていた、そのはずだった。自身がいないと気づいて近隣の仲の悪い極道一家にカチコミをかけていないだろうか。

 杏子の頭の中に不安が駆け抜ける。

 その不安の中でもとりわけ不安を感じたのは悟史のことだった。可愛がられていた自分でもこんな目に遭っているのだから、こっぴどく嫌われていた悟史はとびきり可愛がられているに違いないと確信を持ったからだ。

 一度考えてしまうとその考えに一直線なのが杏子の悪い癖でもあった。なんとかしなければいけないと体を起こそうとするも手足を縛られた状態ではそれすらも難しかった。奥の手を使おうともしたがどういうわけかその部分のみ力が入らなかった。諦めないでジタバタと陸に釣り上げられた魚のように跳ねていると、突如杏子の視界が白く染まる。それは強烈な眩しさであった。

 徐々に杏子の目が明るさに慣れ始めると、光がどこから差し込んだのかが見えてきた。

 それは扉から入り込んでいた。扉といっても一般家庭にもあるような気軽いものではなく、引き戸でより重厚なものだった。長年使われているのかほとんどが赤く錆付き、その重く軋んだ音が杏子の聴覚を殴打する。

 光に目が慣れた杏子はそこがようやく倉庫だということを視認できた。倉庫には多くのコンテナが積み上げられ、開いた扉から入ってきた外気に潮の匂いが混ざっていた。だが杏子にはそんなことはどうでもよく扉を開いた人物をひたすら睨みつけていた。

 睨みつけた先には鋭利な顔つきをした男性がいた。細いラインが細かに入った黒いスーツを身にまといオールバックで整髪している。男性は近くにいた部下に杏子の口に貼り付けたガムテープを剥がすように指示を送る。

 杏子はガムテープを剥がされている間も静かに男性のことを睨み続けていた。

「――佐野ぉ、アンタ自分が何したか理解してんでしょうね」

 佐野と呼ばれた男性は地面に手をつき額を地面に擦り付ける。

「もちろん全てを理解した上で行動しとります。お嬢には手荒な真似して申し訳ねえと海よりも深く反省しとります。責任を――命を捧げる覚悟もできとります。……それでもこの婚姻を認めるわけにゃいかないんです」

「お前の覚悟はわかった。誰かにやれと言われたのか」

 杏子は静かに尋ねる。

 ただそれだけのことなのに佐野は息苦しさを覚える。

「――お嬢の母君にどこかへ隠して欲しいとお願いされました」

 その答えは杏子にはにわかに信じがたいことであった。母親は自身の結婚を心の底から喜んでくれていたと感じていた。笑顔の裏に拉致してまで婚姻に反対する意思があったかと思うと杏子の心は急速に冷えきっていった。

 杏子はその冷え冷えとしたものをどうにか振り払い、毅然とした声で再度尋ねる。

「覚悟に免じてこれ以上は聞かない。ただこれだけは教えてくれ。今は何時だ」

 佐野は顔を上げ、革ベルトに金色で縁取られた腕時計を確認する。黒い円盤の上では長針、短針ともに零時を指していた。

「正午ちょうどです」

「間に合わなかった」と杏子の心は急速に冷え込んだ。

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