嘘つきは誰?

1

 港町の商店街。八百屋や電気屋もあるものの魚屋が多数を占めている。そこを一人の女性が大きな胸を揺らしながら歩く。

 杏子である。

 倉庫から脱出に成功し、人気のある場所を求めてこの商店街へと辿り着いた。来る途中で見かけた看板を見て、ここが自分のいた街の隣にある街だと知った。そして、慄く。そこは敵対組織が事務所を構える土地だった。

 一刻も早く離れなければと思うものの、土地柄がないため勘を頼りに足を速める。この商店街にさし当たって問題が起こる。それは鼻につく生臭さである。杏子はどうしても魚が駄目だった。生理的に受け付けないと言い換えてもいい。匂いを嗅ぐだけでとてつもない吐き気に襲われる。

 ゆえに目先の目的は神社へ帰ることから商店街を脱出することへと移りつつあった。ようは目的を見失いつつあった。気分が悪い中、杏子は思う。佐野は自分を無力化したいのならば生物を近くに置いておけば良かったのだ。佐野が間抜けで助かった、と。

 数歩歩くと、早くも食道の弁は臨界点を超えつつあった。どうにか空気を飲み込みどうにか胃へと押し戻していたがそれも限界に近かった。

 ふらふらと商店街の外へ歩いているものの、港町であるため魚屋を通りすぎて少し歩くとまた魚屋が現れる。魚屋から離れても、風に乗った生臭さが杏子を襲った。

 周りの人から見ても相当青い顔だったらしく、杏子はある女性から「ちょっとあなた大丈夫なの?」と声をかけられる。その女性はまさしく「おばさん」と呼ぶに相応しいような容姿の持ち主であった。三十代後半らしき小じわが増えだした顔、ハーフロングの髪は毛先にパーマをかけてボリュームを出していた。

 こんな時でも気の強い杏子は勇ましく「大丈夫です」と答えようとした。しただけである。答えられなかった。口を開こうとすると胃から濁流の如く吐しゃ物が逆流し、それを遮った。

 口を抑え、黙って頷くもおばさんは杏子を開放しなかった。おばさんは自前の買い物袋からスーパーでもらえる半透明の袋を取り出す。そのまま杏子を路地裏へ誘導し、半透明の袋へ吐くように促した。杏子は首を振り、断固として断り続けていたが潮風に乗った臭みのダメ押しによりダムは呆気無く決壊した。

 吐き気は波のように押し寄せては引いてを繰り返し、何度かに分けて吐き出した。五回も吐いた頃には胃の中から吐き出せるものはなくなり、杏子は心なしかスッキリしていた。

「……ありが、とう、ございます」と杏子は呼吸を整えながら口にした。

 おばさんは嫌な顔一つせず吐しゃ物の詰まった袋の蓋を縛る。

「いいのよ。具合悪そうな人がいると助けたくなっちゃうから」

 いい人だ。

 杏子はそう思った。夫となる下野悟史も人柄が良かった。押しが弱いところが玉にキズだがそれも魅力と思えるぐらいに杏子は悟史に惚れていた。これで押しが強いところがあれば他に何もいらないと豪語できるぐらいには惚れていたはずである、と吹聴してもいた。聞かされた友人は笑顔で青筋を立てていた。

 おばさんは杏子の背中を擦る。

「あたしには寝たきりの息子がいてね、だから見逃せないの。お節介なおばさんでごめんなさいね」

 おばさんの身の上話に、杏子はその病気の息子が良くなることを心から祈った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る