9

 仁はあるアパートを訪れていた。

 水色のペンキで塗りたくられた二階建ての安アパート。洗濯機は室外で、風呂・トイレ一緒。そのアパートの一階で仁はインターホンを押す。

 神社からここまでどれほどゆっくり歩いたとしても三十分ほどの距離だ。それをこの男はあちこち寄り道して一時間余計に費やしていた。なんてことはない。このアパートに住む女性に会うのが怖いのだ。恐ろしいのだ。それに加えて、その女性への頼み事が間違いなく機嫌を損ねるものと確信してもいた。インターホンを押したはいいものの今にも逃げ出したい仁だった。

 どうにかその場にじっと耐えながら待つが中から目当ての女性はいっこうに出て来る気配がなかった。宗教勧誘がよく来ると仁に愚痴をこぼしていたのを思い出す。

「居留守使われたのかなぁ?」

 仁は首を傾げながら、もう一度インターホンを押す。一度は引いた逃げ出したい欲が再び波となって仁に迫るものの待ち人は来なかった。

 仁はポケットをまさぐり二つ折りの携帯電話を取り出す。

 この仁という男は開闢以来、人と会おうと思ったらアポイントメントなしで突撃するという悪い癖があった。何億年もの間、現代のような簡単な連絡方法すらないのに慣れ親しんだせいと本人は釈明している。だが、ほぼ同じ期間を過ごした彼の部下は一人も余らず携帯電話を使いこなしていた。仁は単なる機会音痴というだけである。

 画面を見るとメールが届いていた。巫女からである。そこには式時間延期、開始時間未定とだけ書いてあった。予定が立たなくなってしまったが、そこは神として長年の経験からなんとでもなると思考放棄した。目の前の仕事のことだけを考えることにした。

 通話口を耳に当てる。しばらく経つがなかなか電話に出る気配がなかった。お留守番サービスに繋がり、もう一度かけ直そうと耳から離す。すると「もしもしぃ!」と通話口から耳を離しても聞こえる応答が響いた。

「あ、もしもーし花ちゃん?」

「花ちゃん言うな!」

 仁は電話口から花ちゃんの息が短く呼吸を繰り返しているのを聞き取る。

「もしかしてお仕事中だった?」

「あー仕事中といえば仕事中ね」

「邪魔だった?」

「うん邪魔」

 仁は申し訳なさそうな声で「失礼しました」と通話をやめた。どうしてこう僕の身の回りにいる女性は気が強いのだろう、と仁は泣き言をつぶやく。このまま家主のいないアパートの家にいても仕方ないと、仁はその場から離れた。神社へ戻るために歩き出す。

 どう言い訳しようと悩みつつ、すっかり変わった町並みに思いを馳せる。

 仁がこの街に拠点を置くようになったのは戦後まもなくのことだった。焼け野原だったこの街が再生する様を間近で見守ってきた仁にとってわが子同然の思い入れがあった。「あそこには八百屋があった。昔はこのへん一帯は市場だった」などと語りだせば止まらない。

 もともと世界を創造した神である彼にとっては世界全てがわが子同然である。だがその時の彼は気づいたら作り上げていたという一種のトランス状態であった。そのため作り上げていたことに気づいたのは事後である。

 処女作であり大作でもあるこの世界は思ったよりも完全で、予想以上に予想を裏切り続けていた。けれど、その裏切りが気持ちよくもあった。良くも悪くも裏切り続けられるのは、退屈もせずに済んだからだ。部下からは「退屈を紛らわせるぐらいなら働け」と怒鳴られたことも少なくない。中でも人という種が生まれてからは、人という種を愛しいとさえ感じていた。

 博愛主義者の三浦仁でも愛しく思えない人がいた。

 その名は青葉しずく。

 仁はその女性に会いに行かなければならなかった。そもそも仁が取るべき手段は花ちゃんという女性に頼るか、青葉に頼るかの二通りしかない。その一つがあっけなく潰えてしまったので、残る手立てに頼るしかなくなってしまったのだ。

 その青葉も携帯電話を持たないという生活を送っているため、同じ街に住んでいるというのに言葉を交わすことは数年に一度あれば多い方だ。そのため、会おうとするならばアポ無し突撃が基本となる。

 そのため青葉は朝早くから仁の自宅に邪魔していた。その理由については聞いていない。聞く気もないし、青葉も話す気はないらしい。

 仁が神社に戻る途中、神社脇の小道で何故か今日の式の主役の一人でもある下野悟史が近所のおじさんに励まされているのを目撃する。巫女に見つからないように小道を通っていこうと考えていた仁は帰り道すら選択肢が残っていないことに辟易した。

 当然、正面から帰ると巫女にすぐに見つかってしまう。

 巫女は愛想なく「終わったの?」と短く一言。続けてざまに「終わってないのに帰ってきてんじゃないわよ」という幻聴が仁には聞こえた気がした。できるだけやんわりと恵里に助力を求めるため戦略的撤退だと仁は伝えたが、それでもいつもなら無慈悲な鉄槌をくだされていたので身構えてしまっていた。けれどいっこうに鉄槌どころか罵声の一つも仁に届かないままである。

 これは何やら様子がおかしいと巫女の様子を伺うとなにやら億劫そうに頭を掻いていた。

「なんか今日式やるお嫁さんが貧血起こしたらしくて、時間遅らせてほしいって要望きたんだけどどうする?」

 開始が遅れるメールが届いていたことを仁は思い出した。どうせ見ていないのだろうと機械音痴が過ぎて、もう一度訊かれていた。しめしめと仁は答える。

「今やってる用事もあるし遅らせてもいいって言っといて」

「そう言うと思ってもう許可しといたから」

「勝手なことするな」と怒っても許される状況だというのに仁は悪びれる様子のない巫女に臆してしまい「ああ、うん」と生返事した。

「おかげで今日の予定狂ったわ。まあ、迷惑料としておこずかいもらえたからよかったけどね」

「お小遣い?」

「あそこの厳つい顔のおじ様にね」

 指さした巫女の指の向こうにはプロレスラー顔負けの恰幅を持つスキンヘッドの男性がいた。スキンヘッドは仁と巫女に気づくと会釈をする。巫女は可愛らしく手を振るのに対し、仁は仰々しくお辞儀しそのヘタレっぷりを遺憾なく発揮した。

「べつに取って喰われるわけじゃないのだから普通に対応すればいいの」

「取って喰われた方がマシだと思うことされるかもしれないじゃないか!」

「――まあ、してはいるんだろうけどね。種族選ばないで」

「人間のヤクザでも恐ろしいのに、妖怪のヤクザなんて――ああ恐ろしい」

「妖怪らにとっては天皇みたいな存在が何を言う」

「天皇でもなんでも怖いものは怖い」

「もう一人の天皇みたいな人は物ともしなかったのに酷い体たらくね」

「アレと一緒にされちゃあ誰だって見劣りするよ」

「ああ情けない。男なら見返してやるぐらい言えないものかしら。――あの子はまだアンタの部屋にいるから」

 部屋の中荒らされてるだろうなぁ、と諦念の意をこぼした。その諦念は正しく作用し、仁は自室の惨状を目の当たりにしても持ちこたえることができた。

 仁の自室は六畳半のフローリングだ。地域柄、寒さが堪えるためクリーム色の絨毯を敷いている。木目調のタンスと本棚、ウッドスプリングベッドが壁伝いに設置している。それ以外の私物はほとんど床に重ねて置かれている。物が増える度、無造作に上へ置かれていくため地層ができあがっていた。地層の下層部分を採掘しようものならば土砂崩れを起こしかねない。しかし、上からコツコツと整理整頓などする気も起きない仁は下層部分を寝かしたままにすることを決意した。そのまま再び上に重ねるのは賢くないと悟った彼はその地層の横に新たな地層を築き始めてしまう。そのため彼の部屋には今、新たな大地が生まれつつあった。

 人の居場所が限りなくないに等しい彼の部屋の真ん中にある女性の人影があった。白金の御髪を携え、翠の目をしていた。それだけならあたかも西洋人形がそのまま大きくなったかのように美少女然している。着用した灰色のニットセーターで慎ましやかな胸が虚勢を張っていた。

 そんな美の秩序が、秩序が生まれつつある部屋を荒らしていた。さながら反発する磁石のように、部屋のど真ん中の地層を掘り返して自分の居場所を作っていた。地層の奥底から発掘した漫画を読み、その続きをどこからか発掘しては読み耽るという行為を繰り返していたためどうにか均衡を取れていた乱雑さただの汚部屋と成り下がっていた。

 青葉は帰宅した仁を目をやると「やあ」と挨拶した。

「おや、どうしたんだい。今日は忙しくてあたしになんぞに構っていられなかったのではないのかい?」

 外国人としか思えないその容姿に反し流暢な日本語を操っていた。毎度その容姿から英語がいつ飛んでくるのやらと身構えてしまっている仁は、その挨拶を耳にしてようやく落ち着くことができる。

「青葉さん、あんまり部屋の物をいじらないで欲しいな?」

 青葉と尋ねられた女性は周りを見渡し、あっけらかんと堪える。

「君は少し整理整頓というものを学んだ方がいいのではないかな?」

「これでも一応秩序はとれてたんだけどな」

 青葉は口元に手を添え「クックックッ」と笑い声をこぼす。これは彼女の癖である。これをしていると男性から距離を置かれ面倒がないために続けていると公言して憚らない。その効果もあるにはあるが、やり始めたキッカケは自己主張の強い八重歯を可愛くないと思ったがための荒隠しだった。

 青葉なら隠すのではなく神通力で治す方ががてっとり早く、確実であるがそうしないのは彼女が人間であるため自らに課した縛りである。

「片付けられない人は皆口を揃えて同じことを言うものだと思っていたが、まさか神である君まで同じことを言うとは思わなかったよ」

 八重歯に手を重ねて隠すという仁の地層と同じ発想をした青葉が愉快に口を歪ませる。

「市民目線だよ」

「野党どころか、一般庶民レベルまで力がなくなってる君がそうおっしゃると説得力が違うねぇ。今の政治家に聞かせたいよ」

 青葉はもう一人分のスペースを地層を掘って作る。

「立ってないで、ほら、座りなよ」

「お邪魔します」と我が家というのに他人行儀に腰を降ろす。

「それであたしになんの用なのかな」

 珍しくフレンドリーな青葉に仁はこれはいけると期待した。

「ええと、ある子供の命を救ってもらえないかなと思って」

「嫌だね。面倒だ」

 一蹴。

 けれども予想していたので仁の傷は浅かった。そのため次に取る行動も早い。両手を合わせて、頭を下げる。神にあるまじき行為である。

「どうしても駄目?」

 その後続けて病院に入院してるなど泣き落としもしたが青葉はいっこうに首を縦に振ろうとはしなかった。

「それを叶えるには外に出なきゃならないじゃないか。せっかくの予定をドタキャンしてまで引き篭もってるというのに、それじゃ意味が無いじゃないか。第一、君には頼りになる右腕もとい絶対の信頼を寄せられている部下の死神がいるだろう」

「花ちゃんは今別件で立て込んでるみたいです」

 青葉はおかしそうに口元に手を添える。

「いやぁ、あの子もタイミングが悪いというか間が悪いというか。君は花子くんを作る時、運の良さを与えるべきだったね」

「神生みは僕の力をそのまま分け与えるってのに気づくのが早かったらそれもできたんだけどね。あの時の僕は全能感に襲われてたから」

「聞いたよ。天上天下唯我独尊とかこっ恥ずかしいこと言っちゃってたとか」

「やめて。恥ずかしい」

 両手で顔を押さえて赤面する仁をひと通り笑い倒すと、青葉は漫画の続きに手を出す。

「今日じゃなければやぶさかでもないけど日が悪かったね。あと、たぶんその子供は今日のうちに死ぬよ」

「え、本当?」

 仁は体を起こして尋ねた。いつ亡くなってもおかしくないとは聞いてはいたが、いくらなんでも今日はないだろうという慢心があった。起きる際に特に古くからある地層に肩がぶつかり土砂崩れに飲まれてしまった。

 そんな仁を気に留めることもなく青葉は続ける。

「久しぶりに花子くんが仕事モードの気配を発していたからね。確信を得たいのなら閻魔大王にでも聞けばいい。神谷くんといったかな? 彼の予定表にその子供の名があるはずだ」

 仁はもたもたと携帯電話をいじくり、電話をかける。繋がったには繋がったが、相手側の都合が悪かったのか終始「ごめんなさい」「すみません」「ありがとうございます」という三種の神器を使いこなしどうにか情報を聞き出していた。

 通話を終えた仁は「青葉の言ったとおりだったよ」と弱々しい笑顔を見せた。

「神谷くんはやはり激務だったらしいね」

「そうみたい」

 神谷こと閻魔大王は天界でも随一の忙しさを誇る人物である。天国と地獄への振り分け作業をほぼ一手に引き受けるため休日返上どころか休暇という仕組みさえないものと理解している。従業員はいるにはいるが、どうしても管理職が足りなかった。仁に陳情しても、他の神々からも人員倍増の陳情があり手が出せずにいる。その状況を理解はしていても感情の問題に決着をつけることはできなかった。そのため花子以外の神々とは折り合いが悪い。

「まったくひどい神がいたもんだ」

「青葉は全盛期の僕と同じぐらい力あるんだから手伝ってよ」

「力がある者の責任なんていう考え方、あたしは好きじゃないね。手前勝手な都合の押し付けとなんら変わらない。――それにあたしは人として人並みの幸せを掴む以外に力を使うつもりはないからね」

 仁はその返答に力を借りることを諦める。

「……そっか。それじゃ僕一人でどうにかするよ」

 ただ仁はその返答に青葉の成長が感じられ、これ以上頼むのも無粋であると思う。

 立ち上がり出ていこうとする仁に心苦しく思ったのか青葉は「一つアドバイスを送るよ」と呼び止める。

「二十年前の事件を起こした人物が今この街に来てるからせいぜい気をつけることだね」

 いきなり押しかけてきたのはこういう理由だったのかと仁は納得した。

「うん、気をつけるよ。青葉も危ないから外に出ないようにね」

 仁はそう言うと神社から飛び出していった。

 残された青葉は漫画の続きを発掘する。

 発掘した漫画を読み耽りながら「あたしはもう青葉しずくじゃなくて天野恵里だけどね」と一人呟いた。

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