8
梨香子は依然として追いかけられていた。だんだんと梨香子を追いかける黒服たちとの距離が近づいていた。
梨香子がちらりと後ろを振り向く。黒服の魔の手がすぐ背後まで迫っていた。梨香子は前傾姿勢でその手を躱し、速度を上げる。黒服らは先ほどのチャンスに全てをかけていたのか梨香子と黒服らに距離がだんだんと開いていった。
けれど梨香子も急激に速度を上げたせいか限界に近かった足の動きが止まりつつあった。
もう死んでいるのに、と梨香子は泣きたくなる。
梨香子は自身が溺れたのは覚えていた。和義が助けに来たのも覚えている。そこで記憶は一度途切れた。再び記憶を取り戻したのは、梨香子自身の葬式の時だった。
自分が笑っていた写真の前でみんなが泣いていたので「ああ、私は死んじゃったんだ」となんとなく理解できた。
悲しくないと言えば嘘になる。もちろん死ななければそれに越したことはない。けれど、もう死んでしまったのだからいちいち悩むのもアホらしいものであると梨香子は考えた。喉元過ぎれば熱さを忘れるということわざは上手いこと言ったものだなぁと感心もしたりもした。家族や友人らを泣かせてしまったのは忍びなかった梨香子だが「自分が死んだ時と同じようにすぐに楽になる」と楽観視していた。
思い残すこともなくはなかったが、一年生の夏休み以降は楽しかったからこのまま成仏しようかと決心した。成仏の方法は知らないがそのうち天使が迎えに来てくれるのだろう楽観的であった。しかし、あることに気づく。その場に和義がいないことに気づく。
こりゃまずい、と梨香子が狼狽する。
自分がどうなろうと知ったこっちゃなかった梨香子だったが、大恩人でもある和義を自分のせいで亡くしてしまうのはどうしても許せなかった。
梨香子は和義の情報を得ようとした。
しかし、どうしたものか当然であるが誰とも話すことができないのである。それは幽霊だから仕方がないことだと早々に諦めることができた。けれどとりわけ困ったのは梨香子が自宅の敷地から出ることができなくなっていたことだった。気付かぬうちに、いわゆる地縛霊というものに成り果てていたことに気付いた。
梨香子は家から出るために毎日抜け道を探した。
けれどなかなか抜け出せず、やる気もだだ下がっていた時、母親が親戚らに「ひとまず四十九日法要まではゆっくり休みなさい」と言われているのを耳にする。小学生ゆえ常識が乏しい梨香子は四十九日法要について知るため父が読んでいた案内書を覗いてみた。すると亡くなった人物が天国か地獄行きが決まる日と書いてあった。
一般的な感覚であれば自分の今後に興味のほとんどが割かれるところだが、梨香子の感覚はそれとは異なっていた。梨香子はこの世界にいれなくなってしまうタイムリミットだと感じていたのだ。元々いつかは死後の世界へ行かねばならないと漠然とながらも考えてはいたものの、今すぐにではないだろうという慢心がどこかにあった。しかしこうも不意に期限を突きつけられると誰しも焦りが生まれる。
人の中には期限間近に迫られないと奮起できない者もいるが、梨香子もその一人であった。
その甲斐もあり四十九日法要前日、ついに梨香子は自宅からの脱出を遂げた。
門から出ようとするのは当然無理。塀から外に出ようとしても見えない壁がそれを遮っていた。探しだした抜け道は至極簡単――屋根からその見えない壁を飛び越えるという力技だった。飛び越えた直後は半信半疑で地面と家を視線で何回か往復した。
ダメ元でやってみたらできてしまった梨香子は生まれ育った我が家に一礼をして病院に向けて出発した。その五分後、梨香子は追われる羽目になっていた。また追う者、追われる者両者とも体力の限界に近かった。
梨香子は曲がり角を曲がった際、知らない中年男性にぶつかる。中年男性はくたびれたスーツを着ていた。肩に乗せたトラ猫と目があい、「にゃ」と挨拶される。
中年男性はしゃがんで梨香子の頭を撫でる。
「お嬢さん、曲がり角を走って曲がると危ないよ」
微笑んだ中年男性の声は程よい低さで梨香子に落ち着きを与えた。そのため梨香子は違和感を覚えるのに多少時間がかかってしまう。
梨香子はお礼も言わずに走り去る。幽霊であるのにも関わらずに触れることまでできるということは黒服らとの関係があるに違いないだろうと結論づけたのだ。置いてきぼりを喰らった中年男性の前を息も絶え絶えな黒服らが走り去る。黒服らを見るやいなや中年男性も梨香子を追いかけ始める。トラ猫も肩から降り、梨香子を猛追した。
中年男性も追いかけ始めたことに梨香子は気づく。
再び曲がり角。梨香子がパンツスーツの女性とぶつかりそうになったがすんでのところで避けきる。そのまま走り去ろうとしたところ肩を掴まれてしまう。
「ちょっといいかし――」
もはや嫌な予感しかしなかった梨香子はその手を振り払い、再び足を回す。
その女性も自身を追いかけ始めたことを足音の追加で察した梨香子は「神はいないのですか!」と潰れそうな肺で嘆いた。
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