16

 花子が仁の手を引いて立ち上がらせ、自らの背を仁に向ける。突然のことに仁はきょとんとした。どうしたことかと疑問を持つと同時に答えが現れた。

 和室の上座以外の三方向のふすまが開く。そこには妖怪へと化けた者がずらりと並んでいた。その中で一人化けていない者がいた。狸である。狸は妖怪を従え、その手には杏子のネックレスが握り締められていた。

「穏やかじゃねえな」

 渡良瀬が囲む妖怪らを一瞥する。それらは彼の部下の大半であった。

「腰抜けに組を任せる訳にはいかないと意見が纏まってね」

「戦争は最終手段であるという考えがわからないのか」

「随分と軟弱だな。だから裏で何をやっててもわからないんだよ」

「なんの話だ」

「今朝もニュースになってたかな。隣県での連続行方不明事件。あれは俺が人身売買しているからだ」

 香介は思い出した。今朝恵里を躍起になって捜すキッカケになったニュースのことを。犯人の証拠が見つからず、もうすでに逃げおおせたと思われた犯人はここにいた。証拠が見つからない理由は人間ではなかったことに尽きた。

「俺の目の前でそのことを口にして無事で済むなんて思っていないよな?」

「これは少々見逃せませんね」

 そう口にした花子と関に狸は腹を抱え笑い出した。笑い声は仲間へと伝播し、それに包まれる。「何がおかしい!」と声を荒げる花子に狸は歪んだ面のまま告げる。

「何も準備していないわけがないだろう」

 狸はネックレスを掲げた。

「そこの神様が昔作ったコレがとんでもない封魔の代物だっていうことは理解してるよな?」

「それを私がむざむざと掛けさせると思ったか?」

「掛ける必要なんてあるわけないだろう」

 無造作にネックレスは部屋の中へと放り込まれる。大きな変化は見られないまま畳に落ちる。佐野は目の前に落ちたそれを拾おうと手を伸ばした。「いけません!」と関が止めに入るも間に合わなかった。触れようとしたその腕は弾き飛ばされる。うずくまる佐野の腕は熟れ過ぎたトマトのように腫れあがり、そして爛れていた。

 杏子が側に駆け寄り、介抱しようとした。騙されていたとはいえ裏切り者である自分を杏子が心配してくれる、それだけで痛みに耐えることができた。

「おい、どういうことだ」

 花子が関に応えるよう促す。

「きっとこういうことです」

 手に持った札を飛ばす。狸に向かってまっすぐ飛んで行く札は狸の目の前で突然燃え上がり灰となった。

「結界か」

 佐野が触れたことにより、結界はシャボン玉のような色彩で目に見えるようになる。それは香介らを覆うように半円球になっていた。

 香介は嫌な予感をする。虫の知らせとも言うべきものを狸らの、あまりの余裕ぶりに感じた。「いいか」と小声で恵里と仁を呼び寄せる。

「周囲の視線を全てでなくてもいい。だがほとんどを俺から逸らしてくれ。タイミングは任せる」

「そんなことできるわけない」と早々に匙を投げた仁に対し、恵里は「そんなことか」と安請け合いをする。「どうするんだい」と疑問を呈する仁は背後に倒れる気配を感じた。

 振り向いた仁の目に飛び込んできたのは梨香子であった。倒れた少女はすぐに起き上がるところを見るに無事であることは想像できた。だが少女の表情は酷いものであった。瞼を真っ赤に腫らし、歯を食いしばって泣き声をあげるのを必死で堪えていた。仁が「大丈夫かい?」と優しく声をかけると、募り募ったものが溢れだした。しゃがれた声で仁に訴えかける。助けを呼ぶことができなかった、と。仁は「いいんだよ」と優しく梨香子を抱きしめた。その胸で梨香子は大声をあげて泣きだした。その泣き声の中で「猫さんが」という音を繰り返し吐き出していた。

「アイツに何があった」と花子。

 梨香子は「死んじゃった」と、ただただ感情に任せて放り投げることしかできなかった。

「そうか」と花子は一言呟く。仁に投げかける。

「幸せだったと思うか?」

「本望だったと思うよ」

「そうか。――死なないでくれよ」

「花子もね」

 微笑んだ花子は大鎌を持つ手に力を込めた。ネックレスが放置されている方向の反対側へ駆けていく。振り上げた大鎌をその勢いのまま結界に突き立てた。弾こうとする結界にその全霊を賭し、引き裂こうとした。鎌の刃から伝わる熱で柄に熱が篭る。離さなければ爛れてしまいそうな熱が花子の手の平に伝導した。

 苦悶がその表情に現れる。離して楽になりたい、そう神に請いたくなった。だが守るべきが後ろにいる。それを考えた花子はその手を離すわけにはいかないと鼓舞する。

 次の瞬間、大鎌は折れ、弾け飛んだ。

 結界に刻んだ一筋の亀裂と引き換えに。

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