5
その頃、杏子はおばさんに連れられ港町から脱出できていた。
「ありがとうございます」
杏子は改めて、荒い息遣いでおばさんに礼を言う。おばさんは「いいのよぉ」と受け答える。
杏子は深呼吸をした。ほんのかすかではあるが生臭さはあった。ただ潮の香りで薄まり、吐き気をもよおすほどではなかった。
「ついでで悪いのですが――」
杏子はここから元いた街へ帰るため、方角を尋ねた。するとおばさんはその方角へ用事があるため途中まで送ってもらえることになった。
「どこで用事があるのですか?」
杏子はそこから一人で帰れるのかを心配し、尋ねる。
「病院。息子のお見舞いに行くの」
すぐに触れるべきではない話題だと気付き、杏子は頭を下げる。
「いいのよ。頭なんて下げなくて。――医者からも生きてるだけで奇跡的だって言われてるから。いつでも別れる覚悟はできてるつもりよ?」
おばさんにとっては強がりでも、これが母親の強さなのかと感銘を受けた。杏子は結婚してすぐに子供が欲しいと考えていた。もちろん跡目を作る役割を果たすためという責任感もあるが、それ以上に温かい家庭というものに憧れていた。
杏子の父は早々に亡くなっていた。父を亡くしてからというもの杏子は組に預けられることが多くなった。組員が家族のようなものだった。組員はみんな、特に佐野は大事にしてくれた。けれど、幼稚園に迎えに来てくれる、授業参観に来てくれる友人らの親のことを羨ましく思っていた。父を亡くしてからの母は父以上に組の仕事をしていた。利益を上げるため、隣の組と無駄な争いを無くすため勢力的に動いていた。娘の様子など気にかける暇すらないほどに。
悟史と初めて出会ったのはその頃である。互いに年端もいかないということで組員も妖怪だということを隠すように指示しなかった。小学校に上がると校区も違うというのも理由の一つである。二人は仲良くなった。初めて妖怪であると隠さなくてもいいと許可されたため、肩肘張らない付き合いが杏子と悟史はできていた。
組員の目論見通り、小学校に上がると二人は自然と疎遠になった。
二人が再開したのは高校のことである。その頃には杏子の反抗期も一段落つき、家のこと、妖怪であることにも折り合いつけることができていた。それゆえ悟史に自身が妖怪であることを覚えられているのではないかと不安になった。そこで彼女がとった行動は悟史に何かとまとわりつくことである。
結果から言うと杏子の一人相撲であった。
悟史は昔遊んだ女の子のことは覚えていても、妖怪のことは何一つ覚えていなかった。それに気付いた時点で離れればいいものの、まとわりついたためクラスメイトから二人はできていると噂され始める。そして、外堀を埋められた。杏子自身、つきまとっているうちに悟史の優しさに引かれ始めていたためそれを止めようとしなかった。
しかし、この悟史という男は酷く鈍感であった。二人きりで密室に閉じ込めても、杏子が着替えている途中の部屋に悟史を入れても、好意をそれとなく伝えても、紳士な態度を貫き通した。貫き通してしまった。それは高校を卒業し、大学生になっても続けられた。最終的に一人暮らしの悟史宅に杏子が押しかけ嫁になるような形で思いを伝え、ようやく付き合うこととなった。大学卒業から四年経ち、長かった片思い期間よりも恋人期間が長くなった頃から杏子は子供が欲しいと切実に思い始めた。それから結婚するまで、妖怪であることの告白や極道の家を継いでもらわなければならないなどの問題もあったが、どうにか乗り越え本日に至る。
それらの問題に気を取られ、極道を継ぐことの覚悟はできたが、妻――いずれは母となる覚悟はできていなかった。悟史に相談すれば「時が解決してくれるよ」と優しく諭されるだろうが、何事も積極的に問題に取り組んできた杏子にとってそれは歯がゆいことである。
「母親の自覚ができたのっていつからですか?」
息子が寝たきりなのにこういうことを聞くべきではないことは理解していた。けれど、感銘を受けたこの女性に聞いておきたかった。
おばさんは「そんな大したものじゃないわよ」と前置きする。
「気づいたら母親になってるものよ。この子は私が守らなきゃって気づいたら思ってたわ」
そういうものか、と杏子は自分に言い聞かせる。
「すみません。ちょいといいですか?」
ある男が二人に話しかけた。その男はひどくガラが悪かった。ギラギラのネックレスをかけ、和柄のシャツを着ていた。杏子は率直にダサいと感じた。その後ろにはガラの悪い男と似たような野暮ったい男が多くいた。
「なにか?」
こういう手合は相手にしないのが一番だが、全く相手にしない方が危険な場合もある。それは相手が多人数でグループの暴走を止める役がいない場合だ。無視でもして逆上されれば、おばさんに危害が加わるかもしれない。杏子はこの男らがその場合だと判断した。
ガラの悪い男は怪訝な顔で後ろの仲間と相談を始めた。
そのまま去ろうとおばさんの手を引く。それは見逃されなかった。
「アンタ、原田組のもんか?」
コイツは原田組の一人娘だと確信して声をかけた。だとしたら肯定しても否定しても被害は受ける。そう判断した杏子は「この人は関係ない。だからやるならわたくしだけにしなさい」と啖呵を切った。素直に従うというポーズをしたことによりガラの悪い男らも手荒な真似をせずに連れて行くことを決めた。
男らに囲まれ、移動を始めた直後「少しだけ待ってください」と男らに乞う。少しだけなら、と許可を貰うと振り返り、おばさんと向かい合う。
「ご迷惑おかけしました。わたくしは大丈夫なので息子さんの元へ行ってあげてください」
踵を返した杏子は男らに囲まれるようにして連れて行かれた。
その場に残されたおばさんは杏子の身を案じたものの、慣れないことに混乱してしまっていた。
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