11
「意味がわからないな」
香介は初対面の女性に警戒心を露わにする。それも無理はない。その女性との面識はなかったのにも関わらずフルネームで呼ばれたのだから。
香介と向い合った礼服の女性は黒の長髪で未亡人という雰囲気が漂っていた。押せば倒れるどころか複雑骨折までしてしまいそうな弱々しさを漂わせている。幸が薄いどころか、幸が皆無といった方が正しいような気がしてしまう枯れ木のような女性だった。
「突然申し訳ありません。貴方様にお力添えをしていただきたいのです」
女性は下腹に両手を重ねて添え、深く頭を下げる。しばし頭を下げた後、女性は顔を上げ言葉を紡ぐ。
「紹介が遅れましてすいません。私は島田湊と申します。岡部様にはさる方との間を取り持っていただきたい所存です」
香介には間を取り持つべき人物が思い浮かばなかった。彼が取り持つべき人物となり得る地位にあるのは両親ぐらいだった。しかし、両親に取り持って欲しいのならば他の人物に頼んだ方が確実である。
「一応聞いておくが、一体誰との間を取り持って欲しいんだ?」
推察で答えまで辿り着けなかったため、答えを求めた。ただ誰との間を取り持つにしろ腑に落ちないものを感じそうだと香介は考えていた。
島田は頭を上げる。その顔には迷いの色が濃厚であった。何度か口を開きかけるが、その度すぐに閉口してしまう。業を煮やした香介は「言わないのなら行きますよ」と背を向けるブラフを女性に振る。すると島田は慌てて香介の手を取り、引き止める。
「天野恵里様です! 天野恵里様との間を取り持っていただきたいのです!」
「訳がわからないな」
率直な意見がこぼれた。
それを耳にした島田はその手を離し、両手を胸に添える。必死に自身を落ち着かせ、言葉の真意を伝えようとする。
「……わからないのも無理はありません。天野恵里様が貴方様に関わるのを禁じていましたから」
「エリーが?」
ますますわからない。
島田は頷く。
「はい。天野恵里様は過去に私どもと関わったせいで貴方様に大変な目に合わせてしまったので、近づくことすらも禁じておられました」
香介には自身そのような大変な目に遭った記憶は存在しない。彼はいわゆる健康優良児である。大きな怪我も病気もせずに本日現在時まで健やかに育ってきた。唯一彼が寝込んだことがあるのは小学校高学年の時にインフルエンザに罹患したのが関の山だった。ちなみにつきっきりで看病したのが恵里なのは自明のことである。ただあまりにつきっきりだったため恵里に感染してしまうのは自明のことだった。ただこの時恵里が発した「ああ、こーくんのものがあたしの体の中にぃ――」という感情の吐露は両家に波紋を呼び、一騒動巻き起こすのはまた別の話である。
「怪我した記憶も大きな病気をした経験もないけどな。人違いじゃないのか?」
島田は横に首を振る。
「いいえ、記憶がないのは当然のことです。むしろ、記憶があるのは互いにとって不幸なことですからこれが最良なのです」
香介はこの女性の話を続けて聞くべきかどうか推し量っていた。常識的に考えるのならば、ただのいかれた電波を受信している残念な女性だった。けれど、恵里がいなくなったと同時に現れたこの女性の話を聞かないわけにはいかないという直感が働いていた。
「その言い方じゃ、怪我じゃない可能性もあるってことだな。それに――アンタが俺に何かしたみたいじゃないか」
相手がどういう立場で話しているか、どのような立ち位置で応対するべきかを推し量るため香介は強気でふっかけた。もちろんそんな記憶がない香介は女性からその言葉を撤回し理解できるような言葉が出てくることに期待をしていた。善意からのふっかけでもあった。
しかしどうだろうか。島田の口から出てきたのは「その通りでございます」という肯定の台詞だった。
「だったら俺に何をしたんだ」
意図しない返答だったが、一度ふっかけてしまった手前ひっこみがつかなくなってしまった。悪態をよくつく彼ではあったが、根は素直なため良心が酷く傷んでしまった。
「それを申し上げることは今の私には荷が重いのでご勘弁を。これ以上、禁を破ることは天野恵里様の逆鱗に触れてしまうことになります」
島田は再びその重い頭を深々と下げる。その体は震えていた。
「どうかお力をお貸しください」
香介は決めあぐねていた。
この女性にとって恵里は下手に逆らうことを許されない立場関係だということは重々理解ができた。この女性が恵里ではないと解決できないことを抱えている。島田は恵里が無碍に扱うのが目に見えたため自身に相談をしにきたということも把握する。自身が仲介しなければまともに友人も作ろうとしてこなかった恵里の彼氏を務め上げてきた見識が遺憾なく発揮された。
だからこそ香介には理解ができないこともある。
香介にとって恵里とは欧州系ハーフで、香介のこと以外はほとんど気にかけることのない社会不適合者の美少女で、それでも愛しい彼女である。
香介にとってそれが天野恵里という一個人の全てだった。
愛しい彼女を知らない一面を押し付け、図々しくも力を借りたいという女性を信用するべきかどうか迷っていた。
香介の本音としては助けたかった。困っている人ならば『出来る限り』力になりたいというのが、頼りないながらも現実的な理想主義を掲げていた。恵里もそんなところが香介の良さだと常々断言してきた。香介がする人助けのためなら、恵里は信用を裏切られてでも笑って水に流すだろうということを知っていた。
それゆえにこそ、その信頼を裏切ってはならないと警鐘を鳴らしていた。
「――力は貸せない。いえ、貸すこと自体が現在は不可能なんだ」
香介は問題を先送りにすることにし、言葉を続ける。
「恵里は今居場所がどこにいるのか俺にも検討がつけられない。ゆえに今すぐは力を貸すこと事態が不可能だ」
彼が口にした言葉には嘘偽りはなかった。けれどわざわざ否定から入る理由もなかった。恵里が見つかった際に真偽を確かめてから力を貸すかどうかを決めればいいだけのこと。そこをあえて否定から入ったのは恵里の顔を立てるためである。
島田は香介が予想した通り俯いていた。断られたことがショックだったのだろうと結論づけた。そんな良心の呵責から逃れるために慰めたり他の提案をしようとした。そんな言葉が出かける。だが、島田の様子がどうにもおかしいことに気付いた。
島田は両腕で自らを抱きかかえ、体を小さくする。「そんなはずがない」とぶつぶつと何度も呟く。その目は見開き、焦点が合っていなかった。ガタガタと震えるその有り様は心配の声をかけることすらはばかれるほどの気味悪さだった。
「具合が悪いのか?」
香介は普通ではなかった。ただの『人間』ではある彼だが『普通の人』と呼ぶには大いに世間の感覚とはズレ過ぎていた。一般常識もあれば良識も兼ね備えてはいる香介だが、恵里に言わせてみれば本質はそこではないと親しい友人に冗談めかして吹聴していた。
そんな常人の皮を着て歩いていると評される香介が島田の肩に手を置こうとする。すると島田にその手を弾かれてしまった。弾かれた際、香介は腕に熱い痛みを感じた。反射的に押さえた腕を見ると手首の側面に鋭い傷跡から鮮血がぽたぽたと滴り落ちていた。
香介は手首から血が流れ出ている原因はすぐに突き止めることができた。だがそれを理解することは敵わなかった。理解の範疇を超えたものを理解しようとしたためか痛みすらも忘れてしまっていた。
その視線の先には鎌があった。刃先には赤いものがこべりついている。それが手首を切ったものだと把握することができた。問題なのは鎌が握り締められたものではなく、持ち手と手首が同化していたことだった。島田の手首から先はつい先程までごくごく当たり前に手の平が続いていたのだ。
「……なんなんだそれは」
一歩引いた香介から出た言葉のトーンは落ちていた。警戒色が強かった声色はその色をより強調した、恐れと敵意が外に漏れていた。
訳がわからないものを見た時、人は大きく分けて二つの反応に別れる。戸惑うか逃げるかの二択。香介はそれらとは違う。見極めていた。彼のそれは先天性のものではなかった。恵里と出会って間もない頃、彼女である恵里に色々と訳のわからないもの――双眼鏡で見た白いニョロニョロとしたものや実態がないにも関わらず存在する女性の影を見せつけられていた。記憶も定かではないほどの年頃ではあったが、雀百まで踊り忘れずと言われるように恵里によって身につけたそれは研鑽を重ね、たいていのことならば見定める目を持つまでに至っていた。
答えが返ってくるまでに香介が最初にしたことは理解の放棄であった。この世には理解が及ばないことがあると幼き頃に悟らされていた。そして、次に彼が取り組んだのは思考の充填だった。存在が理解できなくとも、それが及ぼす現象やどのような構造になっているかそれを把握することに努めた。
そして香介が把握したことは大きく分けて二つ。
一つ目は鎌に関すること。鎌は香介にかすった手だけではなく両手にあった。もう片方の鎌ももれなく手首から持ち手部分と同化していた。鎌の刃はかすっただけで鋭く切れたことを鑑みると切れ味は相当なものだと推測できる。
二つ目はその鎌の本体である島田のことだ。鎌が現れる寸前、彼女の様子は尋常ではなかった。そのことから彼女の精神状態が何か因果関係があることも推定することができる。恵里の行方が知れないことがトリガーとなって彼女の精神を揺さぶったと香介は結論づけた。
一つ目から下手に相対することは避けるべきと判断した。逃げるという選択肢もあったが、鎌を持つ女性ということもあり俊敏さも人のそれではないと判断し棄却した。であればどうにか対話に持ち込みたいと考える。二つ目から恵里の件がトリガーとなったことも推測できた。香介はこれを切り口にどうにかしなければならなかった。
「島田さん、俺の言葉がわかるか?」
香介は鎌の間合いに入ってしまわぬよう、入っても紙一重に避けられるよう慎重な足取りで間合いをはかりながら声をかける。島田は振り上げられていた腕を下ろした。必死に自制を働かせていることが息遣いの荒さから見てとれる。
その動きから香介は言葉が伝わっていると解釈し、続ける。
「恵里の行方がわからないのは事実だ。だが、それがアンタの想像しているような最悪とは限らない。元々自由人の恵里のことだ。どっかふらついてる可能性だってあるはずだ。――だから、とにかくアンタが今何を恐れているのかを教えてくれ」
沈黙が二人の間を覆う。ひどい息苦しさの中で香介は島田が落ち着くのをひたすら待ち続けた。
「……元々この婚姻は反対者が多数いました。そのお言葉を聞くことは私の立場ではできませんでしたが、おそらく天野恵里様も反対なのでしょう。もしかしたらこの騒動も天野恵里様が画策して引き起こしたものかと思うと、恐ろしゅうて仕方ないのです」
島田が両腕に繋がっている刃の平で頭を抱える。未だ鎌は消えていなかった。
「――大丈夫なはずだ。どうして恵里をそんなに恐れているかわからないが、きっと恵里は反対してるから騒動を引き起こすなんて真似しない。反対しててもそんなことをするわけがない」
落ち着かせることを念頭に置いた発言だったが、香介自身口にしていて「エリーがそんな面倒なことをするほど我慢強くない」と妙な確信を持つに至っていた。
島田の様子をもう一度伺うと、上げた顔に生気が戻り始めていた。先ほどの言葉を信用してよいかどうかの判断に迷っているらしく瞳を左右にアテなく動かしていた。
もう一押し、と慣れない笑顔を浮かべる。
「なら恵里に直接聞きに行こう。あんたがどんなに恵里のことを恐れていても、俺が手綱を握っている限り大丈夫なはずだ」
島田の手首から先の鎌から黒い煙が立ち込め始めた。何事だと後ずさったが黒煙の中から現れたのは白魚のような手だったため胸を撫で下ろすことができた。島田はおもむろにアスファルトに膝を折る。アスファルトに手をつき、額を地面に叩きつける。
「も、も申し訳ありませんでした!」
正気に戻った島田はそれはさぞかしやらかしてしまったという思いに囚われてしまっていた。せっかく正気に戻したのにこれでは元の木阿弥だと香介は嘆きたくなった。
「香介様を傷つけてしまっては天野恵里様に合わす顔がありません!」
このまま放っておくと額をアスファルトで割って中身をぶちまけそうな島田であった。
香介は一度助けると言った手前、今更見捨てるのも夢見が悪いと考えてしまっていた。けれど何を言っても裏目に出てしまう。どうしようかと考えてはみたものこの人には無駄になるのではないかと考えがよぎる。
そこで彼がとったのは優しい言葉をかけるのを止めることだった。
「そうだな。お前のせいで怪我をした。これを知ったら恵里は相当なもんだろうな」
震え上がる島田に一歩詰め寄る。
「お前の願い叶えるのも、お前自身がどうなるのかも俺のさじ加減ひとつ次第だ。――俺の言うことは素直に聞いておいた方がいいぞ」
どこぞの三下の脅し文句を思いついたままに口にした香介だったが、島田はピタリと大人しくなる。
「どのようなことでもお聞きしますので、どうか何卒、どうか何卒お願い致します」
そんな三下の脅し文句に丁寧に腰が引けて対応する島田に不安と良心の呵責を覚えつつ、こうして二人は行動をともにすることとなった。
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