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神社の裏でそのようなやりとりをしている頃、本殿で狼にいともたやすく食べられてしまいそうな線がか細い青年が巫女に猫なで声で壁に追いやられていた。
追いやられている男は本日執り行われる式の神主役をおおせ仕った三浦仁という青年である。神主であるといういうのにこの男、バイトの巫女に頭が上がらないでいる。弱みを握られたとか、何か裏のある話ではない。なんてことはないこの三浦仁という男は生活力というものを長い人生が始まる前にどこかへ置き忘れてしまったらしい。今更新しく身につけるのは手間だと考えた彼は誰かにおんぶに抱っこの生活をしている。今現在は巫女の女子高生に世話になっている始末だ。そのため尻を叩かれ、尻に敷かれているというわけだ。けしてヒモというわけではないが、ヒモになりたいという願望は少なからずあった。持て余した怠惰が唾棄すべき願望になりつつあった。
「ねえ、式までまだ時間があるんだからいいでしょ?」
巫女が仁の紋付紫袴を柔らかな指先で撫でる。そのまま仁の耳が隠れるまでに長く柔らかい髪をいじり始めた。
仁は瞳を閉じ、斜め上に顔を向ける。
彼はヘタレである。とんでもないヘタレである。女性と関わる時間は人よりも多いと自負していた。ただ、長く関わり過ぎたせいで女性を友人というカテゴリに入れてしまった。そのためこのように積極的に出られると蛇に睨まれた蛙のようになってしまっている。
「わかったから! わかったから離れて!」
仁が喚くと、巫女はさっと離れた。したり顔をしていた。
「それじゃあ何をしてもらおうかなぁ。あーでもブランド物のバッグ欲しかったんだよねぇ」
顎に人差し指を添え、ぽいぽいと好き放題に願望を投げつける。仁は願望の山に埋もれかけながらも「待ってよ!」と口を動かすのを止めない巫女に懇請した。
二人の間に静かな空気が流れる。それは一流の剣士同士が互いの出方を探りあい、牽制しあうのにも似ていた。しかし、残酷なまでに実力差があった。いうなれば達人とギリギリプロという才能の壁がそそり立っていた。
「してもらいたいこと決まったら教えてね」
そそくさと逃げようとする仁。だが後ろから抱きつかれてしまう。
抱きつかれ「うひゃっ」と情けない声をあげた仁の耳たぶを巫女がかじる。すると「ひゃうん」と嬌声が出てしまった。
これは怒っても大丈夫だと確信した仁はきっと巫女を睨みつけるが、巫女は冷めた目で見返していた。その目に仁は竦み上がる。
「喘ぎ声あげるとか引くわ」
出鼻をくじくどころか思いっきり叩き潰された仁は意気消沈するも、どうにか尋ねる。
「何を頼みたいの?」
男としての尊厳を奪ってしまったと罪悪感がこみ上げつつある巫女であったが、すぐに罪悪感すらも真後ろへ放り投げてしまう。自分の進む道で罪悪感を踏んでしまわぬようにという自己中心からくる配慮だった。
仁から離れ、その前に踊り立つ。不敵な笑みを浮かべる彼女は巫女というよりはその魔性さから、さながら魔女のような佇まいであった。
「ちゃんとお仕事だから心配しなくてもいいわよ」
訝しむ仁を気に止めず巫女は口を動かす。
「うちにいっつもお参りに来てるおばさんのことは知ってるわよね?」
そのおばさんに仁は覚えがあった。約二ヶ月ほど前から一度もかかさず毎朝毎夕と参拝に来ているおばさんだった。そのおばさんは三十代前半でまだまだ見目麗しい女性だった。巫女がおばさんと呼ぶのはどうにも女としての意地や嫉妬があるのかもしれない。
「あの人のことでしょ? 一人息子が回復するようにお願いしてくれてる」
その女性の息子は女性が神社にお参りするのと同時期に事故に遭っていた。その事故とは川の増水による水難事故だった。事故に遭ったのは二名。小学四年生の男女だ。二人は雨の日に遊びに出かけたとき、女子が足を滑らせて川の中に落ちたらしい。それを救うために女性の息子が後を追って事故に遭った。その男子は今現在寝たきりだという。仁が話を聞くところによるといつ目覚めても、いつ亡くなってもおかしくないという難しい状況だという。もう一人の事故の被害者である女子は、男子の奮闘もむなしくその事故で亡くなってしまっていた。
「そうその人」
「何をすればいいの?」
仁は嫌な予感をしていた。もう引退したはずの方の仕事を押し付けられるのではないかと。
「そんな緊張しなくていいわよ。あなたに頼みたいことは言伝だから」
それこそ昔の仕事仲間と関わらなければいけないことであった。
「い、一応さ面識あるんだから、自分で伝えた方が早いよきっと」
巫女は不快感を隠そうともしない。
「ふざけんじゃないわよ」
日本語に疎い外国人に言い聞かすように巫女は続ける。
「私アイツ嫌い。アイツも私嫌い。わかる?」
その嫌い同士の間に立たされる自分の身にもなってくれて嘆きたかった仁だが、目の前の圧力に耐え切れず問題を先送りすることを早々に決めた。弱々しい笑みを浮かべ、巫女に暗黙の肯定を伝えた。
「あの女に息子さんを助けるように言っといて」
二人の間に了承の合図などはいらなかった。長年連れ添った夫婦のように、阿吽の呼吸が彼らにはあった。惜しむらくはそれが奴隷と女主人のような格好だということだった。
「うん、とにかく言ってみるよ」
式が始まるのは正午からだ。今現在は九時半を過ぎていた。巫女が嫌うその女性と連絡を取り合い、息子さんをどうにかするには十分な時間だと仁は考えた。しかし、巫女とは違う形で恐ろしいその女性と出会うのは気が引けるため、心の準備としては物足りなかった。
「そう? じゃ式が始まる前には帰ってきてね」
巫女は背を向け、ひらひらと手を振りながら出入口へ向かう。
出入口のへりで足を止めた巫女は半身を仁へ向ける。
「それじゃお客様へ還元よろしく頼むわ――神様」
そう口にすると今度こそ本殿をあとにした。
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