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同日同刻、彼らが住む街のとある神社。普段は人はまずいない境内では巫女やフォーマルな格好をした老齢、妙齢の男女が多く動いていた。そこでは今日、ある祭事が行われようとしていた。
その祭事の主役は二人。
夫となる下野悟史。
妻となる原田杏子。
夫となる悟史は鳥居の近くで緊張を取っ払うのに全力を尽くしていた。人という文字を何度も飲み込んでいた。人に呑まれないようにするためのおまじないなのだろうが、用法用量を守らずに何錠も飲んだせいで緊張で顔色が悪くなりつつあった。
そんな空回り男である下野悟史を一言で言い表すならお人好しという言葉に尽きる。落し物があったら迷うことなく交番に届ける。迷子がいたら一緒に親を捜してあげる。このようなごくごく当たり前の善行を自然体で行っていた。彼のお人好しは人でなくてもわかるのか、野良の動物達がまるで説明会に参加する就活生のように入れ替わり立ち代わり自宅の周りに現れていた。そのせいか悟史の自宅は勝手に居着いた野良の動物たちが跋扈している。周囲の子どもたちからは動物屋敷と呼ばれていた。そんな彼独特のお人好し雰囲気は大きすぎない程度の恰幅の良さと絶やすことの笑顔を振りまいていることで助長していると周囲の人間たちは考えていた。
珍しくその笑顔が消えつつある悟史は腕時計を確認する。午前九時を半分過ぎた辺りだった。午後を過ぎた辺りに神前式が始まることを考え「まだまだ時間はあるぞ」と自分に言い聞かせている。けれど言い聞かせれば言い聞かせるほど緊張が全身に回っていく始末であった。
手が震え始めると「気分転換しよう」と鳥居から離れた。
悟史が境内の中で砂利を踏みしめる音で緊張を解していると本殿近くで手持ち無沙汰だった相手側の親族とその関係者が彼を取り囲んだ。笑顔が彼を取り囲む。それは悟史の持つ無害のものとは違う敵意を覆い隠した笑顔に見えていた。
悟史は婿養子。そして、嫁の親族からは祝福されないまま今日という日を迎えていた。彼を取り囲んだ親族は男性がほとんどで、年も妙齢から老齢なのも相まって竦み上がってしまうような剣呑さがあった。
「こ、こんにちは。どうもお世話になっています」
取り囲む親族らに深々と頭を下げて回る。
親族らは苦い顔で溜息をつく。その中でもとりわけ苦い顔をした老人が前に出る。皺が深く白髪、こはく色のサングラスでを一本杖をついていた。
「おい、悟史」
しゃがれ声で名前を呼んだ。
「はい! なんでしょうか、お義祖父さん」
お義祖父さんと呼ばれた老人は手にしていた杖で悟史のふとももをこれみよがし叩いてみせた。
「まだお前に身内呼ばわりされるいわれなんぞありはせん!」
続けてふとももを殴打しようとするも悟史は反射的に後ろに下がって避けた。「すみませんでした! もう呼びません!」と慌てて謝る。空振った老人は不満気にフンと鼻を鳴らし、言葉を続ける。
「鈍いやつめ。この式でわしらはお主らの婚姻認めると言っとるじゃろう!」
大声で悟史を怒鳴ると「察しが悪いのう。先が思いやられるわい」と愚痴をこぼす。
「ありがとうございます!」
悟史は深々と頭を下げ、感謝の言葉を伝えた。
すると今まで敵意を発していた周囲の関係者らも腰を落とし、右腕の手の平を天へと向けて突き出し、片方の腕は背にまわしていた。
「筆頭若頭――下野悟史改め原田悟史殿、組員一同以後お見知りおきを!」
彼らは仁義を切った。
「こちらこそお願いします」と悟史はなんとも頼りなく返した。これには原田組の関係者も「悟史に組を任せるのは当分先のことになるだろう」と確信するのであった。
悟史の頼りなさが改めて露呈したことで組員一同が切ったはずの緩慢な空気が流れだす。彼を指導することになっている直系組織の組長さえも朗らかな顔になっていた。杖で地面を一突きし、緩みを正したのは婚姻を許可した一次組織の元組長だった。
元組長がゴホンと咳払う。
「わしら以外じゃまだゴチャゴチャ言うとる奴はおるが気にするな。わしらが説得して回る。半人前のお主は当分孫を幸せにすることだけを考えておればいい」
悟史はこはく色のサングラスの奥にある黒い目をしっかり見据えた。
「杏子さんのことは僕が必ず幸せにします」
どうにも頼りなさが先行する男であるが、信頼に足ると思わせるのには十分な宣言だった。それは長となる資質を持つ人物の必要条件だった。その場の誰もが表にしないが、誰もが同じことを感じていた。
そこへ「お父さん」と妙齢の女性が現れた。黒の生地に鶴があしらわれた艶やかな着物を身につけていた。悟史の嫁である杏子の母であった。
「なんだどうした」と元組長。
「彼と式の前に話しておきたかったことがあるのでお借りしてもよろしいでしょうか?」
元組長はウンウンと頷く。
「わしもお前が婿を貰った時は夜も眠れないほどに色々と考え込んだものだ。娘を取られるぐらいなら婿を殺してしまおうとも考えたものだ。寂しさが一周して、今度は式には出ないと駄々をこねたこともあったな――」
延々と続きそうな講釈をお義母さんは「お父さん」とぴしゃりと遮った。それから「借りていきます」と短く伝えると返事も聞かないまま有無を言わさぬ健脚で悟史の手を引き連れる。その際、講釈の続きを悟史の教育係になる男に語り始め、周囲の組員はそそくさと二人から距離を取る姿が悟史の目に映った。
神社の裏に連れて来られた悟史はこれから何を言われるのだろうと不安を持った。今までわだかまりを感じていた組員ともどうにか円満な関係を過ごせそうだと感じた矢先のことであった。腕を引いた時に感じたその鬼気迫るものを感じていた。式当日にそこまでさせるほどの至らぬ点があっただろうかと自問自答するも、至らぬ点に覚えがありすぎてどれがそうさせているのか検討もつかなかった。むしろ至っている点が自身では想像もつかない彼にとって今日という日を迎えられたことが不思議でならなかった。
「あ、あのお話とはなんでしょうか?」
相手を興奮させないように悟史は極めて丁寧な声調で尋ねた。
しかれども義母は話を始めようとしなかった。正確には言うべきか言わざるべきかで喉元まで出かかった言葉を出したり引っ込めたりと非情に初々しさの残る動作を繰り返していた。そうしてついに決心したのか義母は胸に握り拳を当てて片方の手でそれを覆って落ち着かせる。
そこから出た言葉に彼は耳を疑った。
「娘が誘拐されたの」
疑うべき耳が冤罪であるという判決が出ると、続け様に死刑宣告されたかのように悟史の目の前は真っ白になった。
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