彼女がいなくなった町で

宮比岩斗

ついていない人々

1

 それは彼が今でも鮮明に覚えている原初の記憶であった。

 それは暖かさよりも肌寒さを感じる風が肌を撫でるようになってきた季節の頃のことであった。もみじ舞う庭で、彼は隣に越してきた同い年の幼女と邂逅した。優しい日差しを受けたプラチナブロンドの頭髪が一心にきらめき、翠の瞳は彼の瞳を捉えて放さなかった。初めて見る外国人の姿は彼に強烈すぎる印象を与える。それらは記憶に残る要因の一つではあるが根本となる原因足り得なかった。

 原因は唇を奪われ、愛の告白をされたことである。

 その彼の名を岡部香介という。

 なんだかんだ愛の告白をされた香介は思う通りにならない人生やら運勢やらとにかく気に入らないことに悪態をつきながらも、周囲に生暖かく見守られながら懸命に日々と戦っていた。彼は時折悪態をつくことに疲れた時「どうしてこうなった」と思慮を巡らしている。巡らしてはみるものの問題が多すぎて一つ一つの案件にかける時間が足りなかったのか再び悪態をつく作業に戻るという悪循環に気づいていながらも抜け出せないでいたのであった。

 本人からしてみれば悪循環でも、周囲からしてみればその懸命なさまが可愛く見えるらしくのか男女共に評価は高い。背も高く痩身で、なんだかんだ面倒見の良い彼の周りには人が絶えることはない。ラフレシアの如く女性に好む何かを振り撒く彼に悪い虫がよりつかないのは、それこそより質の悪い虫がそこに居座っていたからである。

 その質の悪い虫とは昔、香介が幼少期の頃に唇を奪ったくだんの幼女のことである。

 その幼女の名を天野恵里という。

 香介の唇を奪ったその日から恵里はその『彼女』の座を守り続けている。石の上にも三年というが、十数年その座を守り続け苔むしたその石は、ちりも積もればで一山と化していた。登山を試みた勇気ある者も少なくないようだが、一人として漏れることなくその頂に君臨する者に追い返されてしまっている。その手段は多種多様。その手段ばかりに熱意を向け、他のことがおざなりになってしまっていた。他に熱意を向けることはといえば香介といかにイチャつくかという桃色な妄想世界に興じることが関の山であった。また、恵里自体に挑もうと名を挙げた男共は恵里のお熱ぶりに焼け焦げてしまっていたのだった。

 この二人は今現在、ともに大学生となっていた。住み慣れた町から離れることのない親元での生活。それまでとほとんど変わることのない生活。それは彼にとっては期待外れもいいところの変わらない日常。彼女にとっては物足りない日常だった。彼女の不満は年の割には健全すぎるお付き合いをしていることである。

 そんな二人はなんだかんだそれらの不満に折り合いをつけてはいた。

 しかし、ただ一つ彼らの間に妥協できない一つの不満点があった。

 この日も秋が深まりを感じさせる肌寒さを覚え始めた頃のことだった。

 香介には現在進行形で不満があった。

 彼は恵里とデートの約束をしていた。お隣さんだというのにデートの雰囲気を感じたいという恵里の要望でわざわざ駅前待ち合わせをしていた。今は午前九時。めいいっぱい遊びたいというため休日の朝八時半に待ち合わせ、日本人特有の十分前行動、不意の問題に対応するためにさらに早く行動していた。そのため、ただ待つという時間に四十分近くも甘んじていた。

「エリーの奴、また寝坊か?」

 彼が幼少期に見た目に惑わされて口にし、いつの間にか定着したアダ名を呼び舌打ちする。それから彼は諦めたように歩き始めた。

 恵里は携帯を持っていない。どうしてか香介が尋ねた時に彼女は「こーくん以外に拘束されたくない。つまりこーくんには何をされてもいいということを逆説的に許可したというのだよ」としたり顔で言ってのけた。その結果として「俺には束縛されてもよかったんじゃないのか」と遅刻されたことに悪態をつきたくなっていた。

 帰路の最終地点から歩いて数歩、恵里の家に到着する。

 彼女の自宅は広い庭付きの日本家屋だ。正面には瓦屋根つきの立派な門を構えており、庭には盆栽やら灯籠が置いてある。日本好きが高じて、日本女性を嫁に貰った恵里の父親がその趣味を遺憾なく発揮した結果がこの邸宅である。もっとも屋内に和室はあるものの申し訳ない程度でほとんどが恵里の母親主導の洋風家屋であった。外では夫を立て、家庭内の実権は妻が握っている清濁飲み込んだ家庭内であった。

 インターホンを押して、しばらくすると恵里の母親が現れた。休日でも規則正しい生活を心がけているらしくエプロン姿に髪を後ろで結んでいた。恵里の母親である彼女であるが、その面影はあまり感じられない。父親の血が濃い恵里は、純日本人の母親とは親子に見られることは少ないらしく恵里の母親はそれを悔しく思っていた。また、性格も規律正しい生活を旨とするこの母親と対照的に、恵里は明日は明日の風が吹く生き方をしていた。そんな実の娘と似た箇所が少ない恵里の母親は、なにかと共通点が多い香介に「早く恵里を嫁に貰って息子になって」とよく冗談とは思えない必死な目でせがまれていた。

 そんな恵里の母親は香介を見るなり首を傾げた。

「今日はうちの子とデートでしょ? それとも結婚の挨拶に来たの?」

「デートの件で。エリーはいませんか?」と香介は質問で返す。

 それを受けて恵里の母は逆向きに首を傾げる。

「結構前にあの子なら出て行ったわよ」

 はい? と彼は聞き直す。

「八時ぐらいに慌ただしく朝食も食べずに、ね」

 待ち合わせ時間に間に合うよう出ておくという殊勝なことをしておいて妙だな、と香介は疑問を持つ。慣れぬことをしたから何かに巻き込まれたとも考えた。約束を忘れて他の友人と遊びに出かけたということも考えたが自他共に香介以外のことを優先するくらいなら天と地をひっくり返すと言わしめているため一蹴した。

「おばさん、もしもエリーが帰ってきたりしたら連絡ください」

 お義母さんでもいいのよ、と軽口を叩かれ別れた。

 恵里の母親と別れた香介は自宅へ一時的に帰宅した。なんてことはない彼には以前も似たようなことされた覚えがあったからである。その時は彼を外に誘い出し、その間に部屋の中を物色するという暴挙をされていた。あまりにも手を出してくれないから、性的趣向が偏っていないかどうかの確認だそうだ。つまるところ同性愛者、または不能なのか不安を感じたらしい。ここで浮気を心配されないあたりが恵里らしさともいえた。

 ここで問題なのが、香介の部屋に上がるのを誰も遮らなかったということである。どうにも彼女はもはやわが子同然の扱いを受けているフシがある。むしろ香介よりも可愛がられているフシがある。ついでに言えば妹と弟は兄である香介よりも恵里に懐いている。このままいくと恵里の父親と同じく和室に引きこもる未来一直線なのが彼の不安であった。また、物色の際には不幸中の幸い、部屋の奥底に蔵匿した恵里の胸部にあるささやかなものと著しい相違点がある裸体本は白日のもとに晒されることはなかった。こんなことがいつまたあるかと危機感を持った香介は物色があった近日中に廃棄することになった。

 そんなこんなで我が部屋へと香介が冷や汗モノの緊張感を思い出しながら扉を開ける。そこには誰の姿もなかった。胸を撫で下ろす香介だったが、安心すると今度は「本当にどこへ行ったのやら」と疑問が再度浮上する。

 一階に降り、岡部家で一番早起きの弟に「恵里が来てなかったか?」と尋ねる。弟は朝早くから放映されている変身ヒーローもののテレビ番組から目を離さず投げやりに答える。

「今日は来てないよ」

「買収されてないよな」

「されてないよ」

「信じるからな」

「兄ちゃん、しつこいよ」

 ちょうどヒーロー物のテレビ番組が一段落し、コマーシャルが流れ始めた。弟はもはや興味がなくなったのか、テレビの原電を落とさずに自分の部屋に帰っていった。なんとなしにニュースにチャンネルを合わせる。そこでは隣県で起こっている女性の連続行方不明事件が流れていた。犯人は他県へ逃げおおせたのではないかと妙に神妙な顔つきのコメンテーターがそう解説していた。

 普段は気に留めもしないニュースの一つだったが、この時ばかりは不安をかきたてるのには十分だった。

 香介は家から飛び出した。

 普段から突拍子もない言動や行動に悩まされている彼であったが、彼女のことは憎からず思っていた。言ってしまえば大好きという一言に尽きた。

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