5
少女は逃げていた。
目が隠れるぐらい長い前髪のロングヘアをなりふり構わず揺らしながら逃げていた。なにから逃げているのかも、どうして逃げているのかもわからないまま逃げていた。よく知らない街で、見慣れない住宅街を疾走していた。よく知らない道を走り抜けるのには「こんな道もあったんだ」と新しい体験をした時にも似た高揚感があった。けれど、それ以上に倦怠感が体中を占めていた。少女の体はもはや気力だけで足を動かしていた。何度も曲がりくねりながら逃げていたせいで僅かながらに記憶していた道から大きく逸れてしまっていた。感覚的な羅針盤ももはや役に立ちそうにはなかった。
逃げる少女には絶対にやり遂げなければならないことがある。
ゆえに少女はどうしても逃げ切らねばならなかった。
少女がこの街にやって来たのは今から二年前のことだった。親の転勤の都合でこの街へ引っ越してきた。転勤が決まったのは就学直前だったこともあり、慣れた幼稚園の卒園式にも参加できないままこの土地へやって来た。やって来たはいいものの残り二週間のためだけに幼稚園に通うのも、過度の人見知りで塞ぎ込みがちの我が子の負担が大きいという親の配慮から、友人の一人もできないで小学一年生になってしまった。
見知らぬ土地で誰一人として知人すらいないで始まった学校生活を送るはめになった少女の名を里中梨香子という。
梨香子は吃音症。いわゆるどもりだった。
上手く話せない。
聞き返される。
変な目で見られる。
就学前の幼い少女が塞ぎこむ原因になるには足り過ぎていた。
両親は手当たり次第治療法を調べ、吃音症を治そうとした。物心がついていた梨香子はそれが自分は当たり前にできることができないと叱られているように感じていた。無論、梨香子は言われるがまま努力する。用意された様々な手法で練習した。けれど、一向に改善される気配を感じさせなかった。むしろ、気持ちが焦り、どもりは悪化していく。
いつしか梨香子の右頬がぴくぴくと震えてしまうようになっていた。
それはストレスが原因だと診察された。
幼い梨香子にはストレスが何かは理解できなかった。けれどそれがよくないことであるとは理解できた。なぜなら毎日練習を促していた両親が「もう練習しなくていいよ」と抱きしめたからである。
梨香子はそれから両親の目がないところで必死に練習した。皮肉にも両親の言葉が、梨香子には「できない子」と突き放されたかのように感じてしまったからである。しかし、少女が独力で治すにはどうしようもない壁が立ちはだかっていた。少女一人では壁を乗り越えようにしろ、壁を壊そうにしろ、それは高すぎて厚すぎた。しかし、親に捨てられたくなかった梨香子は諦められない。ゆえに梨香子が選択したのは壁から背を向けて歩き出すということだった。
ひたすら聞き役に徹し、自分がするのは相槌のみ。
それが幼いながらに学んだ世間の歩き方だった。
痙攣は治ることはないままであった。
治らないまま小学生になってしまう。
小学生生活初日、教室ではそれぞれがそれぞれの出身幼稚園で島をつくっていた。その中で梨香子はポツンと浮いていた。島にさえなっていない梨香子はもはや大海原に浮かぶ流木であった。ぷかぷかとあちこちを彷徨うけれど自ら行動を起こせない。それは受け身のコミュニケーションしか取ってこなかった梨香子そのものだった。
どうしよう。
梨香子が恐れたのは友人ができないことではない。友人を作れないことで「かわいそうな子」と見られることである。ひとりぼっちの梨香子はその日、何度も頬が引きつった。それが誰かに指摘されることすらなかった。それからもほとんど誰とも話さずに過ごす生活を続けていくうち、家から出ると足が震えてしまうようになっていた。次第に家から出れなくなっていく。
両親は梨香子を慰めた。一切咎めることもなく。
久しぶりに登校したその日は前学期終了日である。午前授業で次の日から夏休みとなれば学校中がどこか浮ついた雰囲気になっていた。だからこそ梨香子も登校することができた。明日からは気兼ね無く休むことができると梨香子も後ろ向きに浮ついていたのだ。
いつもと同じように何事も無く一日が終わる。誰とも話さずに終わる。そのはずだった。
帰り際、それぞれの小学生の島が午後の予定を話し合っている。それには混ざらず梨香子は帰る支度を進める。賑わっているうちに、あたかも最初からいなかったかのように、一足でも早くその場から去りたかったのだ。
梨香子は教室を出ようとする。廊下に出ようとした瞬間、右手首を掴まれた。掴んだのはとある男児だった。女の子のような可愛らしさと男の子のような快活さが混ざったような子で同級生だけではなく保護者からの人気もある生徒である。
誰とでも楽しく話せる男児に掴まれ、誰とも満足に話せない梨香子は内心パニックに陥っていた。パニックが更なるパニックを呼び込みそうになるが男児が続けざまに口を動かし未然に防いだ。
「今日みんなで遊ぶから梨香子も一緒に遊ぼう!」
梨香子の耳には「遊ばなければ酷い目に遭わす?」という脅し文句にしか聞こえず思わず頷いてしまっていた。
その後のことは省略する。
強いて挙げるならば梨香子はその男児――上条和義が他の同級生とのパイプになってクラスに馴染んでいった。もう一つ付け加えるならば、いつもはまっすぐ帰ってくる梨香子が自宅になかなか帰ってこないものだから母親が何かあったのではないのかと勘ぐり小学校や警察に連絡して一騒動になったことだろう。
そのまま梨香子は言葉少ないながらも学校に楽しんで通うようになる。
そのまま二年生になった。
いつの間にか梨香子の頬は痙攣しなくなっていた。
大きな問題なく二回目の夏休みを迎えた。
梨香子の夏休みに終わりが告げられることは永遠になかった。
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