10

 梨香子は再び目当ての男子が入院している病室への突入機会を伺っていた。好機だとばかりにT字路となっている病室の前へ移動を始める。病室にいた変人と梨香子を追いかけてきた変質者は今もナースに怒られている最中でこのチャンスを逃しては二度と会えないと考えていた。

 それはまさしくその通りであった。

 だが梨香子の肩を叩く人が現れる。

「まさかアイツが本当のこと言ってるとはな」

 梨香子は竦み上がった。そして数え切れない疑問符が頭をうめつくす。

「あ、え、ど、どう……して」

 パンツスーツの女性はぶっきらぼうに答える。

「猫いただろ? アイツから聞いた」

 猫と話せるのがさも当たり前のことのように口にした女性に梨香子は言葉を失う。幼い頭脳ではあり得ないことを柔軟に受け止めることはできても、どうにか築き上げてきた現実感を壊すまでには至らなかった。

 逃げなければ。

 梨香子はそう考えるも両肩を強い力で掴まれ、身をよじっても逃げ出せそうになかった。

「あ」

 パンツスーツの女性が声を漏らした。

 梨香子は顔を後ろに向ける。絶句した。

 そこにはゆっくりと歩いてくる男性の姿があった。見た目は優男風ではあるものの、中身は変人そのものだと梨香子は知っていた。あの病室にいた男性であった。

「あ、花ちゃん。どうしてここにいるの?」

 手を振りながら変人は近づいてくる。

「花ちゃん言うな。――それよりどうして社長がここに?」

「社長だなんて恭しい呼び方しなくていいよ。僕たちは家族のようなものじゃないか」

 家族という言葉に反応し、梨香子の両肩を持つ力がより強くなる。梨香子がうめき声をあげたためすぐに力を弱めたが、このことにより梨香子は二人が恋仲であるという結論に至った。

「そんなことより、仁はどうしてここに?」

 顔を赤らめさせる女性に梨香子は白い目をした。どうして他人のイチャつきを見学しなければならないのだろう、と。そしてあなたは見た目に騙されている、と。

「ここの病室の男の子のことでお願いがあったんだよ。さっき電話したよね。この病室の男の子のことだよ」

「ああ、そうだったのか」

「それよりこの子は?」

 変人は梨香子の頭を撫でる。

 梨香子は鳥肌が立った。

「よくわからんが妖怪どもらに追われているみたいだ。だから保護を兼ねて神谷のもとへ連れて行く予定だ」

 それを梨香子はどこかへ売られると理解した。変人が社長なんて呼ばれていることも勘違いに拍車をかける。どうにか早いところ逃げなければ、と改めて決意したところへ向かいの通路から変人が歩いてきた。

「あ、関さんだ」

 変人が変質者を見るやいなや名前を呼んだ。

 そんな変人の気安さとは対照的に、変質者と女性の動きがピタリと止まる。

 女性が梨香子を変人に押し付ける。

「その子を頼む!」

 女性はどこからか大鎌を取り出し、変質者へと飛び出していった。

 何が起きたかわからず梨香子がきょとんとしていると、その手を変人が握り走りだす。

「とにかく逃げるよ!」

 寒気が走るも女性に掴まれているときよりも逃げれる勝算があるとした梨香子は黙って従うことにした。ナースに怒鳴られながらも変人は梨香子を引っ張り、病院中庭まで到達した。

 今日一日中走り回った梨香子はその場に座り込む。息を整えていると、そこへ「にゃお」とトラ猫がやってきた。トラ猫は前足を梨香子の足へ乗せる。

「そんなに急いで、また追われたのかい?」

 トラ猫を撫でようとした梨香子の手が止まった。

「マタさん、どうしてここに?」

 変人が今まさに言葉を話したトラ猫に尋ねた。

 それだけで梨香子は変人が変人たる所以だと見なすことができたが、それと同時に自分が本当は世間知らずなのではないかと自己問答を始める切っ掛けになってしまった。人とほとんど話すことなく成長してきた梨香子は自分が変人すら知っているような常識に欠ける非常識人だと認めることにした。

 マタさんと呼ばれたトラ猫は前足でぽんぽんと梨香子の足を叩く。

「成り行きでこの子を追いかけることになっての」

「成り行きなら仕方ないですね」

「仕方ないの」

 何が仕方ないのかわからない梨香子はとりあえず頷いておくことにした。

「――そういえば関さんと花ちゃんが喧嘩始めたけど何か知ってる?」

 マタさんは梨香子の足に寝始める。

 梨香子はわけがわからないといった様子でただそれを受け入れた。

「主様、青葉様が転生なさる事件のことは花様にも伝えていないのですか?」

「伝えてないよ?」

「どうしてですか?」

「……青葉は色々とアンタッチャブルな存在だからね。ここじゃあ公然の秘密みたいなものだけど、わざわざ口の軽い花ちゃんに教えるまでもないかな、と」

 マタさんは溜息をつく。

「花様は関を極悪人だと勘違いしているのでは?」

「――え」

「花様もバカではないのだから、きっと少ない情報で考察したのだろう。だから関の名前を聞いて飛んでいったのでは」

 変人は頭を抱え、青い顔をしながら立ち上がる。

「一応智春は罰せられるべき加害者ではあるから間違いはしていない」

 そう付け加えるマタさんに変人は答える。

「もうアレは終わったことなんだから、それを罰するなんておかしい!」

 変人は争う二人の元へと戻っていった。

 一人残された梨香子は膝の上を陣取る猫に目を遣る。

「逃げてもいい?」

「色々と誤解はあるだろう。ただ悪い奴ではないから安心してくれんか。――それと逃げるのは許可できんの」

 梨香子は力無く「はあ」と頷くばかりでなかば思考放棄していた。

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