第96.5話 長政様は、肩書がどうしても欲しい

永禄8年(1565年)1月下旬 近江国小谷城 浅井長政


細川殿もがっかりなされて広間を去られたが、きっと俺も落ち込み具合では負けていないだろう。


「片諱……官位……管領代……」


ため息が混じったこの言葉を市が待つ部屋に戻るまで、そう何度ブツブツと呟いたのだろうか。


『管領代・従五位下、浅井備前守義政』


もし、そう名乗ることができるのであれば、どんなにすばらしい事だろうが、もちろんわかっている。寧々殿や父上の申す通り、この魅力的な餌に喰いつけば、三好と戦う可能性が生じて、浅井の家を危うくすることは。


それゆえに、最後は断らざるを得なかったが、俺にとっては断腸の思いだ。ああ……三好と戦えるだけの兵力と金が欲しい。そうであれば……


「あら?どうかなされたのですか?そんな浮かない顔をされて……」


だが、そんな未練がましいことを考えていたせいで、市に心配を掛けてしまった。膝の上には猿夜叉丸を乗せてあやしている姿を見て、二人を守るために誘いに乗らなかった判断は正しいと思い、「なんでもない」と答えたが、この聡明な妻には通じなかった。


「どうか、お教えくださいませ。殿が何を悩んでいるのか……妻として知っておきたく存じます」


……などと言われてしまえば、我慢して吐き出さないようにしていた未練が一気にあふれ出し、気が付けば……思いの丈を全てぶちまけていた。


「そんなに官位とか役職とかお名前とかが欲しいのですか?」


「欲しいな。喉から手が出るほどにな。何しろ、浅井は国人領主上がりで、領地を持つ重臣たちの多くは、俺のことを盟主という認識で見ているだろう。だからこそ、支配者であることを示すために、誰もが分かりやすい権威が必要なんだ」


それが官位などであると言うと、市は「ふーん」と返してきた。それゆえに、難しい話だったかと思い、吐き出したことで気が少し晴れたこともあり、この話題はこれきりにしようと思ったのだが……


「全部求めるから、一つももらえないのではないでしょうか。例えばですが、公方様のお役に立つ人を一定期間貸し出す見返りに、何か一つでも要求しては?」


市は、諦めずにもう一度細川殿に交渉してみてはと、俺に提案した。しかし、公方様に貸し出せるような人材など、果たして家中にいるのか。そう思っていると市は、竹中半兵衛の名を上げた。


「あの者ならば、唐土の諸葛孔明の如く、公方様をよろしく補佐するでしょう。それだけに、見返りも期待できるかと」


「だが、市よ。半兵衛は政元の家臣であって、俺の直臣ではないし……何より、半兵衛が寧々殿に遠慮して引き受けないと思うが?」


「だったら、寧々ごと貸し出しましょう。そうすれば、半兵衛もついていくでしょうし、いない間に莉々ちゃんをうちの嫁に取り上げることもできるし……まさに一石二鳥の策よ!」


きっと、そんなことになっても寧々殿のことだ。市に取られないように、莉々ちゃんは父上に預けて行くだろう。だが……そこを聞かなかったことにすれば、市の申した策は利に適っていると俺も思った。


「わかった。ならば、明日細川殿にもう一度話してみよう」


今度は邪魔が入らないようにこっそり会う。そのつもりでいたのだが……事態は急転した。


「え……?寧々殿が京に?」


城下の宿に泊まる細川殿を密かに訪ねようと思っていた矢先、直前に父からそのような事を聞かされて、俺は交渉の手札を失ったことを知った。やはり、流石は半兵衛と言った所だろう。つまり、全てはお見通しのようだった。


こうして先手を打たれた俺は、またため息を吐いたのだった。

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