第92.5話 藤吉郎は、おっかさんの逆鱗に触れる

永禄7年(1564年)11月中旬 尾張国小牧山 木下藤吉郎


権六殿のおかげで、なんとか切腹は免れたものの、我が家の前に立って儂はため息を吐いた。


外まで漂ってくる美味しそうな匂いから、きっと菜々は昇進をお祝いするために御馳走を準備しているのだろうと想像がついた。まあ、一応は墨俣3万石の領主となったのだから出世には違いないが……。


「ただいま」


「お帰りなさい、藤吉郎……あのね」


ん?菜々の様子がおかしい。いつもならば、「ご飯にするのか、お風呂にするのか、それとも、わ・た・し?」と訊いてくるのに、今日はそれがない。それゆえに、どうかしたのかと思っていると……その背後から見覚えのある鬼婆がひょっこり姿を現した。今すぐにでも怒りを爆発させそうな面をして。


「お、おっかあ……?」


「久しいのう、藤吉郎。それで……小一郎はどこにおる?」


「どこにって……それは手紙で……」


「あいにく、わしゃあ字が読めねえからな。おまえの口から聞きたいんだわ。どうやって、おまえが小一郎を殺したのかってな!」


やっぱり知っているじゃないかと言いたい所だが、逃げる方が先だ。ヤバい!すでに鬼婆は、包丁を手に持っている。


「待てぇ!藤吉郎!このろくでなしの鬼畜猿がぁ!!」


背後から罵声を浴びせながら追いかけてくる鬼婆は、百姓仕事で鍛え上げた足で儂を追いかけてくる。それゆえに、早い。本当に早いのだ。そして、このままだと逃げきれないと思い、儂は又左衛門の家に飛び込んだ。助けてくれと叫んで。


「どうしたのだ?藤吉郎。そんなに慌てて……?」


「お、おっかあが、儂を殺しに来たんだわ!又左、頼む!助けてくれぇ!!」


「助けてくれって……」


「ここかぁ!藤吉郎!!ぶっ殺してやるから、早よ出てこんかぁ!!」


流石におっかあも、他所様の……しかも、織田家に仕える侍の屋敷に踏み込むのはためらったようで、外から怒鳴り声は聞こえるが中には入ってこなかった。すると、又左衛門はため息を吐きつつも、「仕方ない。間に入ってやるから、暫し待て」と言って、外に向かってくれた。そして……


「おっかあ……すまねぇ、小一郎のことはこのとおりだ。許してくれ!」


「ふん!この口から生まれた人殺しが。死ぬなら、おまえだけ死んで来い!」


「……まあまあ、ご母堂も某の顔に免じて、もうその辺りで許してあげては頂けませぬかな?藤吉郎はこのままだと、あなた様に許されないことを気にして、戦場で命を落としてしまうやもしれませぬぞ。それでもよろしいので?」


「…………」


仲介に入ってくれた又左衛門の説得が効を奏して、おっかあの怒りはようやく鎮火した。だから、儂はずっと心の内に秘めていた「小一郎への償い」をここで表明することにした。それは、来年産まれるという小一郎の子を……男ならば、香菜の婿に迎えて、いずれ儂の身代を譲るという話だ。


「おまえ……何を言っている?小一郎に子って、頭打っておかしくなったのか?死んでしもうたのに、どうやって子作りできるんだ?」


「小一郎には恋人がいたらしいんだ。戦が終わったら、結婚するって。それで、占星術に通じているさるお方から、来年の春に子が生まれるって話を聞いたんだわ」


「そんな……ことが?」


しかし、そうはいいつつも、おっかあには少し心当たりがあったらしい。儂のことなど放っておいて、突然この屋敷から飛び出して行った。向かうのは恐らく中村だろう。


「はぁ……助かった。又左もありがとうな」


「ははは、これしきのことお安い御用だ。それよりも大変だったな。お屋形様のお怒りを買ったのだろう?」


「ああ、あれもホント死ぬかと思ったぞ……」


こうして、おっかあが去った後、儂は又左衛門と酒を飲みながら、色々愚痴を零した。それにしても、1日に2度も死ぬ思いをするとは。今日は間違いなく、厄日のようだ。

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