第285.5話 お稲さんは、研究を諦めない
元亀4年(1573年)2月下旬 京・本国寺 稲
『薬がどうやら効かなくなっているみたいだ。唾に含まれている労咳の菌また増え始めているからね。残念ながら、ここまでのようだ……』
信玄公に断腸の思いで告げた言葉を反芻して、わたしは宛がわれた部屋の縁側で今夜もまた一人月を見ている。
すでに打てる手立ては無くなったのだから、寧々様のいる本能寺にさっさと戻るべきなのだが、まだ諦めたくないという気持ちがきちんと整理できないため、四郎様のお許しを得て留まらせてもらっている。もっとも、いつまでもというわけにはいかないだろうが。
「いかがですかな?もし、よろしければ……某と一献でも」
しかし、そんなわたしの姿がこの男のスケベ心を刺激したのだろうか。武田家が誇る傾奇者、秋山伯耆守がそんなことを言いながら近づいてきた。だから、皮肉を言ってやる。
「おや?おつや様はもう飽きられたので?」と。
すると、秋山は笑いながら……それでもわたしの隣に座り、杯を差し出してきた。「飽きたけど、今更それを言うわけにはいかないでしょ」と言いながら。
「酷い男だね……」
「そうは言うけど、体を重ねたからと言って、心まで縛られたくはないでしょう。それは、あなたも同じなのでは?」
(同じか……)
受け取った杯に注がれる透明な酒を見て、わたしは自然に苦笑いを浮かべた。この酒を造った時もそうだし、今、労咳の治療薬を開発しようとしているわたしは、半兵衛に心を縛られることを欲していない。これで彼の妻だというのだから……同じく酷い話だ。
「……というわけで、今夜は一緒にお酒を飲んで、俺と布団の中ではっちゃけない?大丈夫、旦那さんには内緒にしてあげるし、悩みも全部きいてあげるよ?」
「残念だけど、わたし、馬鹿は大っ嫌いだからそれは無理ね。来世で頭のいい子に生まれ変わってから出直してきなさい」
「ひどっ!?」
「酷いも何も、新婚早々に人妻に不倫を持ち掛けるってどうなのよ!四郎様に言い付けるわよ?」
「それはご勘弁を。俺、若殿に睨まれているから、次やらかしたと知られたらかなりヤバいんだわ!」
「そんなの知らないわよ。潔く叱られなさい」
これで話はお仕舞い。受け取った杯を空にして返して、「しっしっ!」と秋山を追い払おうとした。しかし、この男はこんなことも慣れているのか……めげない。
「まあ、そう言わずに……耳寄りな話を聞かせてあげるからさ。お稲さん、徳本先生って知っているかい?」
「徳本先生……って、あの医聖と呼ばれる永田徳本先生かい!?でも、今は放浪していてどこに居るのかわからないって聞いていたけど?」
「それが、信濃の美ヶ原にどういうわけだかいるって話だ。どう思う?」
「どう思うって、それは……臭うわね」
放浪はしているが、徳本先生は武田家に仕える医師だ。もしかしたら、わたしと同じく信玄公の労咳を治す手立てを探しているかもしれないし、そうじゃなくても、一度お会いして相談をしたかった。
「しかし……信濃か。簡単には行けないわよね」
何しろ、これでも夫がいる身だ。半兵衛の許しを得ずに行くのは、流石にまずいことは理解している。
「だったら、寧々様にご相談されたら如何かな。御夫君の主なんだろ?」
なるほど。確かに寧々様のお口添えがあれば、半兵衛も許してくれるかもしれないわね。良い顔はされないとしても。
「……ところで、もしかして本当はそれを言いに来たの?」
「さて、それはどうだか。まあ、俺としっぽりやってくれないのなら、これ以上ここに居ても仕方ないな。他を探すよ」
そして、秋山は最後に笑みを浮かべながら、わたしの前から去って行く。その後ろ姿は傾奇者に相応しく格好が良くて、わたしの頭は自然と下がるのだった。
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