第674.5話 小一郎は、ご宸筆の顛末に青ざめる
天正13年(1585年)1月下旬 山城国伏見 羽柴小一郎
今日、父はお城でご褒美をもらうと言って家を出られた。なので、今宵は御馳走だと思い、心を弾ませながら仕事をこなしている。ちなみに俺の仕事はというと、大樹様の親衛隊を鍛える指南役のようなものだ。
「せ、先生……も、も、もう少し……手加減を」
おっと!どうやら、心が弾み過ぎていつもよりも訓練が厳しくなってしまったようだ。見渡せば、隊士の皆が例外なく全員倒れていた。
「では、休憩に入ろうか」
「え……?お、終わりでは……」
「終わり?」
一体何を言っているのだろうか。確かに心が弾み過ぎて少し厳しくしてしまったけれども、勝蔵殿の兵士ならば汗一つかかずに休憩なしで次の鍛錬に取り掛かっているはずだ。それなのに、この大樹様の親衛隊は何たる腑抜けか!
「やっぱり、休憩はなしだ。今すぐ、巨椋池で遠泳を始めるぞ!」
「え……!?雪が降っておりますが……」
「それがどうした!『心頭滅却すれば火もまた涼し』という言葉を知らんのか!行けっ!」
「そ、そんな……」
だが、そんな情けない隊士たちを叱り飛ばして池へと追い込もうとしたその時、近くを歩く侍たちの会話が耳に入ってきた。それは、今日父が貰った褒美というのが主上直筆の和歌だったという話だった。
無論、それは我が家の誉れになる話でめでたい事だと思ったが……同時に気づいた。父上はきっとその価値を御理解できないであろうと。
「ま、まずい!」
父ならばきっと、その和歌が記されたご宸筆を質屋にでも持ち込んで金に換えてしまうであろう。だけど、それをすれば我が羽柴家は終わりだ。領地は召し上げられて、俺まで腹を切る事になる。
それゆえに、今日の訓練はこれまでと伝えて、俺は慌てて城下に向かった。背後で「助かった」いう声が聞こえたが、それについては明日訓練の量を倍にするから問題ない。兎に角今は、城下の質屋を悉く回って売られたばかりのご宸筆を回収するのが先である。
しかし、全ての質屋を巡ったものの、いずれにも父上は現れなかったと聞き、屋敷に戻る事になった。
「玉!父上は?父上はお戻りか!?」
「は、はい。只今、お義母様とお話を……」
「そうか!いるのだな!!」
「そ、そうですが……ちょ、ちょっと!おまえさま!?」
質屋に売っていなければ、まだ手元にあるはず。そう思って、俺は母上の部屋に踏み込んだのだが……
「はあ!?なんで日吉の嫁に女狐の孫を迎える話になるのよっ!わたし、あんたに言ったわよね?日吉の嫁は今度こそ摂関家から取るって。忘れたのかしら?」
「だが、菜々よ。寧々殿は今や正二位。摂関家と並んでいるのだぞ?その孫娘ならば……」
「はん!何が正二位よ!成り上がり者は成り上がり者でしょ!」
「それを言えば、我らとて成り上がり者で……」
「おだまり!」
パシパシと父の頭を短冊のようなもので叩く母を見て、俺は青ざめた。主上から賜った御宸筆で、一体何をしているのだと慌ててその手から短冊を取り上げた。
「小一郎?どうしたのよ。帰るなりいきなり……」
しかし、その短冊には母のヘタクソな歌が書かれていただけだった。よかったと俺はホッと胸をなでおろした。
ただ……そうなると、本物のご宸筆はどこにあるのだろうか?
「父上……本日、主上より和歌を賜ったとお聞きしましたが?」
「ああ、あれか。あれなら……あれ?そういえば、どこに置いたかの?」
「どこに……って、まさか早くも失くしたのですか!?」
「失くしてはいないはずだが……」
まずは周辺を見渡して、それから立ち上がられて辺りを探し始めた父上。その様子から見て、どうやら大事なものだというのは理解されているようだが、探しても探しても見つからず、その顔は次第に青くなる。
「ないのですか……」
「ど、どうしよう!このままだと、わしゃあ打ち首じゃ!」
それは決して大袈裟な話ではない。上様のお耳に入ったら、朝廷との関係を鑑みてそういうご沙汰が下る事になるだろう。もちろん、嫡男である俺に対してもだ。そして、そういう事情を知って母上も慌て始めた。
「と、兎に角、もう一度探しましょう!」
「何をですか?」
すると、そこに現れたのはお玉であった。ただ、その隣……手を引く日吉の右手には、探していた短冊が握りしめられていた。
「「「あった!」」」
「えっ!?」
お玉は何が起きたのか理解が追い付いていないようだが、俺は構わずに日吉からその短冊を取り上げた。見れば、そこには歌が記されていて末尾に主上の諱である『方仁』とある。本物だ……。
「うわーん!僕のハエ叩きとったぁ!」
「おまえ様!いきなり日吉から取り上げて、何をするのですか!!」
だけど、喜んだのも束の間、俺はお玉から叱られることになった。しかも、ハエ叩きって……よく見ると、短冊の裏にハエが潰れたような汁が付いている。
ああ、どうやら手遅れだったようだ。
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