8.魔法書に触れて

「ここが君の仕事場になる」


 翌朝、ヴィクトル様に案内されたのはお屋敷の地下にある一室だった。

 防御魔法が扉だけでなく部屋全体に幾重にも掛けられているのが分かる。それだけじゃなくて認識阻害もされているのを感じ取れた。

 鍵であるイヤーカフをしていなければ辿り着く事も出来ないかもしれない。


 ヴィクトル様が開いてくれた扉から中に入ると、部屋の真ん中には大きな机が用意されていた。

 その上にあるのは、一冊の魔法書。写しだという話だったけれど、魔力とはまた別の不思議な力が溢れているようだった。

 魔法書の周りには紙や筆記用具などが用意されている。


「足りないものがあれば何でも言ってくれ。参考文献などはこちらの棚にまとめてある。女神光教から借りているものもあるから、取り扱いには気を付けて欲しい」

「分かりました。確認ですが……わたしのやる事は魔法書を解読し、精霊王を目覚めさせるための魔法を復元する為に再構築をする。ですよね?」

「ああ。難しい任務になるが、君以外に出来る人はいないと思っているよ」


 ヴィクトル様はいつものような穏やかな笑みで、そんな言葉を口にしてくれる。

 それがお世辞だとしても、わたしのやる気を出させるには充分なものだった。

 わたしでも出来る事がある。頼りにされる。それは……わたしがここに居てもいいのだと実感させてくれるから。


「俺は研究所で仕事を片付けてくる。俺が不在の間の警備は、門に騎士達が立つ事になっているから安心してくれ。昼には戻るから昼食を一緒にとろう」

「いえ、そんなわざわざお戻りにならなくても大丈夫ですよ。食事もお気遣いなく」

「俺が戻らなければ、携帯食料で済ませる気だろ?」


 考えていた事を言い当てられて、思わず言葉に詰まってしまった。

 そんなわたしの様子に大きな溜息をつかれてしまうけれど、不思議とそれが優しいものに聞こえる。


「昨夜と今朝と、俺の作る食事は口に合わなかったか?」

「そんな事はないです。とても美味しかったのですが、わざわざ戻っていただくのが申し訳なくて……」


 所長秘書として忙しくしているのは聞いている。そんなヴィクトル様をわたしに付き合わせるわけにもいかない。


「申し訳ないと思うのはなしだ。俺が好きでやっている事なんだから。それに午後からはここで仕事をするようにと、スティーグ様からの指示でね。君の解読も手伝うように言われているし」

「そうだったんですね。あの……ありがとうございます。頑張ります」


 秘書であるヴィクトル様が不在だと、スティーグ殿下もきっと大変だろう。それだけわたしの請け負った仕事は重大なものなのだ。

 そう改めて実感すると緊張する気持ちもあるけれど、それに応えられるように頑張らなければと思った。ぐっと拳を握ってから、魔法書へと視線を向けた。


「じゃあ行ってくる。ここに通信用の鏡を置いておくから、何かあればすぐに連絡するように」

「分かりました。行ってらっしゃいませ」


 机の上にある鏡を指で軽く叩いてから、ヴィクトル様は扉へと向かう。肩越しに振り返りながらの言葉に返事をすると、ヴィクトル様は瞬きを繰り返した。

 すぐにふわりと笑ったその顔があまりにも綺麗で、花開くとはこういう事なのかと……少し現実から意識が離れてしまったようだ。

 その一瞬の間に扉が閉まった。


 なんだかふわふわして落ち着かないのは、『行ってらっしゃいませ』なんて久し振りに口にしたからだろうか。

 出勤する時に寮母さんに『行ってきます』と言う事はあっても、送り出すなんてなかったから。


 ゆっくりと息を吸い、同じだけの時間をかけて吐き出した。それを繰り返している間に、気持ちも落ち着いてきたようだ。


「……よし。頑張ろう」


 用意された机に座り、魔法書に触れる。パチパチと雷魔法を使った後のような痺れが走る。魔法書を写してくれた人の魔力残滓だった。

 触れていると魔法書がわたしの魔力に馴染んだのか、もう反発される事はなかった。


 女神様の文様が記された厚地の表紙を開く。

 ページをぱらぱらと捲ってみると、当然なのだけど全て古代文字で書かれているようだった。魔法陣のような絵もあるけれど、初めて見る魔法式でなんだかドキドキしてくる。


 古代文字を読み解くのは楽しい。

 わたしの指二本分ほども厚みがある魔法書を解読するのは大変だろうけれど、わたしは気持ちが高揚しているのを感じていた。


 頑張ろう。

 改めてそう決意すると、紙とペンを引き寄せて最初のページの文字を拾っていった。


 ***


 何か音がする。

 わたし以外の誰かが立てる、固い音──ノックだ。


 そう気付いたわたしは慌てて立ち上がった。少しの間隔をあけて、ゆっくりと扉が叩かれている。


「アンジェリカ、入ってもいいか」

「は、はい!」


 ノックだけでなく、声まで掛けられてしまった。

 慌てて返事をしながら立ち上がり、扉に駆け寄ると鍵の開く音がした。静かに開かれた扉の向こうには、いつもの笑みを浮かべたヴィクトル様が立っている。


「すみません、ノックの音に気付かなくて……」

「集中していたんだろう。調子はどうだ?」

「二ページだけしか出来ていないんです。魔法に関する記述はまだありませんでした」

「この短時間でそれだけ進んだのはすごいよ。休憩にしよう」


 机に近付いたヴィクトル様は、わたしが解読したメモを覗き込んだ。

 口元に拳をあてて、時折小さく頷きながら読み進めているようだ。


「これは……女神の手記か」


 ぽつりと漏れた声に、わたしは頷いた。

 

 魔法書の書き出しは悲痛なほどの嘆きから始まっていた。

 人と神との戦が始まった事を嘆いているのは──女神シュエルヴェ。これは女神が後世の為に書き残した手記なのだ。


「これは魔法書だけでなく、歴史書でもあるのだな……」

「神話が解き明かされる事になるかもしれません。この先も同じように書かれていればの話ですが。でもこれを今まで解読しようとする人はいなかったんですか?」

「時が来るまでは触れないようにと伝えられていたそうだ。光教の奥深く、教皇と直系王族しか立ち入る事の許されない場所に保管されていたんだ」

「そんな重要な魔法書を解読させていただけるなんて、改めてプレッシャーに押し潰されそうです」

「そうか?」


 メモを机に戻したヴィクトル様は笑った。いつもよりも悪戯っぽい笑顔だった。


「楽しそうに見えるぞ」


 心の中を見透かされたようで、顔に熱が集まっていく。赤くなっているだろう頬を手の甲で隠しつつ、わたしは小さく頷いた。


「……楽しい、です」


 わたしの言葉にヴィクトル様は笑う。それにつられるようにわたしも笑ってしまった。

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