13.大切で、好きな友達
転移酔いにぐらぐらと頭の中が揺れている。
こめかみを両手の指で揉み解しながら、深呼吸を繰り返した。
わたしが解読作業に入ってから、もう一か月半が経っている。
ヴィクトル様のお屋敷でお世話になってから、研究所に来るのは初めてだ。
わたしの仕事を引き継いでくれた同僚からの要請だったから、ヴィクトル様もわたしが研究所に出勤する許可を出して下さった。
出勤といっても、ヴィクトル様が転移するのについてきただけなんだけれど。
「大丈夫か?」
「はい……これはいつか慣れるんでしょうか」
「慣れる事もあるけど、体質によるかな。転移前には酔い止めを飲んだ方がいいかもしれない。用意しておくよ」
「いえ、そこまでひどいものではないので……」
「そんな顔色で言われてもね。薬で楽になるなら頼るべきだ」
ヴィクトル様がわたしの頬を指でなぞる。少し冷たい指先が気持ち良くて、わたしは小さく吐息を漏らした。
冷たくて気持ちいいだなんて、わたしの頬は熱を持っているんだろうか。あとで氷を出して冷やしたほうがいいかもしれない。
「じゃあ昼にまた、ここで」
「分かりました」
「何かあったら連絡して」
そう言いながらヴィクトル様は自分の耳についているイヤーカフを指で揺らした。わたしも同じようにつけているイヤーカフの魔石をそっと揺らして頷いた。
研究室も久しぶりだ。
顔を出すと同僚たちが明るく出迎えてくれて、それにほっとしてしまった。わたしの居場所はまだここにあるのだ。
わたしを呼びだした同僚の元に行くと、彼女は少し気まずそうに眉を下げた。
「どうしたの?」
「あー……あの、ね。あなたの仕事で何か問題があったわけではないのよ。アンジェリカはしっかり記録を取ってくれているから、むしろやりやすかったというか……」
どういう事だろう。
何かトラブルがあったから、呼ばれたのだと思ったけれど。それが不思議で首を傾げると、わたしの肩がぽんと叩かれた。
振り返ると、そこに居たのはラウリス先輩だった。
同僚の彼女と同じように、申し訳なさそうに眉を下げている。
「俺が頼んだんだ」
「ラウリス先輩が?」
「ああ。ちょっと研究で行き詰まってて……アンジェリカの力を借りたいんだ」
「分かりました。でもそれなら、そう呼んで下さればよかったのに」
「エーヴァルト秘書官に頼んだんだけど断られちまって。騙すみたいに呼んで悪かったとは思うんだが、どうしてもお前が必要なんだ」
わたしが、必要。
その言葉はわたしの心にすうっと溶け込んでくるようだった。
わたしは必要にされている。それになんだかほっとしながら、わたしは頷いていた。
「大丈夫ですよ、騙されたなんて思いません。時間がたくさんあるわけではないので、早速ですけど見せて貰っていいですか?」
「ああ、助かる」
二人はわたしの言葉に安心したように表情を和らげた。
実際のところ、引き継いで貰った仕事が滞っていない事にも安心したのだ。
時間も空いたしラウリス先輩の研究をお手伝いするのも問題ないだろう。
そう思いながら、わたしはラウリス先輩の研究室へとついていった。
ラウリス先輩の研究室は綺麗に片付けられていた。
机の上にはさすがに資料や論文が積み上がっていたけれど、作業台は整っている。
わたしが研究に没頭してしまった時は、床にも資料が散らばっていたから、それを思うととてもすっきりして見えた。
「この数値が、試算と合わないんだ。誤差かと思ってそのまま実験に入ったんだが、思ったような結果も出ない」
差し出されたレポートを受け取って、中を確認する。
ラウリス先輩の専門は生活魔法の発展だったけれど、これもそれに関するもののようだ。
「この魔法式で、この数字が算出されたんですね」
「そう。多少簡略化しているが、発動するのに問題ないはずと思うんだけど……」
「わたしにも魔法式を計算させてください」
机と椅子、それからペンを借りて魔法式を組み立てていく。
同じように簡略化するけれど、組み立てにはそれぞれの癖のようなものが出る。おなじものを作ろうとしても、わたしとラウリス先輩では組み立ての仕方が違うのだ。
魔法式を組み立てるのは楽しい。
術式だけを追いかけるのは無心になれる。余計な事を何も考えなくていい。
部屋の中にはペンが紙の上を滑る音だけが響いていた。
***
魔法式が書きあがって、わたしはペンを置いた。
実際に発動させなければ数値は分からないけれど、たぶん試算されているものに近付いたのではないだろうか。
「……すごいな」
ぽつりと落ちた呟きに顔を上げると、ラウリス先輩が微笑んでいた。
久し振りに古文書以外に触れたから、少し集中しすぎてしまったみたいだ。時計を見ると思ったよりも時間が経っていた。
「この魔法式も組み入れて貰ったら、数値が近付くかと思います」
「ありがとう。おかげで助かったよ」
「お役に立てたなら良かった」
そう言って立ち上がると、わたしの書いた魔法式を覗き込んでいた先輩とぶつかってしまった。思っていたよりも距離が近かったらしい。
すみません、と離れようとしたのだけど……わたしの片手がラウリス先輩の手によって机に縫い留められていた。
「……先輩?」
先輩の緑の瞳に映るわたしは、驚きに目を丸くしていた。
わたしよりも高い温度が、わたしの手に伝わっていく。
「もう行くのか?」
「え、と……そう、ですね。もう、用事は済んだので……」
いつもと違う雰囲気に落ち着かない。この距離は……不安になる。
ラウリス先輩が言葉を紡ごうと口を開いた、その時だった。ノックが響いた。
弾かれるようにわたしが離れるとラウリス先輩が苦笑しているのが見えた。でも落ち着かなかったのだから許してほしい。
再度のノックに応えながら先輩がドアに近付いていく。開いたドアの向こうにいたのはわたしの友人──シィラだった。
「アンジェリカがこちらにいると聞きまして」
「ああ。アンジェリカ、迎えだ」
「はい。では失礼します」
わたしはシィラに駆け寄って、彼女の手を引くようにして研究室を後にした。手に残る熱は、まだ消えてくれなかった。
***
シィラと一緒に廊下を歩く。この先にはヴィクトル様の居る執務室がある。
まだ約束の時間にはなっていないけれど、もう向かってもいいだろう。
「ねぇアンジェリカ……大丈夫だった?」
「何が?」
「ラウリスさんのこと。また研究を手伝わされたんじゃない?」
シィラにはわたしが何をしていたのかお見通しのようだ。
わたしは苦笑を漏らしながら、一つ頷いた。
「でも計算したいって言ったのはわたしだから」
「もう……お人よしね。でもラウリスさんは嘘をついてあなたを呼び出したんだから、怒らなくちゃだめよ。あなたは別の仕事をしているんだから」
「それは……そうね」
シィラの言う通りだ。必要にされている事を優先にして、ちゃんとした判断が出来ていなかった。
自分の居場所をずっと探している気がする。それじゃだめだと分かっているのに。
「別に怒っているわけじゃないのよ。でもラウリスさんには気を付けてね」
「ええ、分かった」
頼まれごとを何でも受けるのはやめよう。そう決意しながら頷くと、シィラはわたしの腕に自分の腕を絡ませてきた。距離の近さが擽ったいけど、嫌じゃなかった。
廊下にはわたし達の足音だけが響いている。窓から差し込む陽光に、わたし達の影が並んで伸びていった。
「ねぇ、エーヴァルト秘書官と一緒にお仕事をしているんでしょ。大変じゃない?」
「何が?」
「あの方って背が高いでしょ? 見上げるのって疲れない?」
予想もしていなかった問い掛けに、思わず笑ってしまった。そういう事を言うのなら、きっとシィラは見上げて大変だったのだろう。
でも……あれ? わたしは特に気にした事がなかった。
「見上げてるはずなんだけど……気にならなかったわ。不思議ね」
「あなたとわたしって、そんなに身長も変わらないのに?」
「でもこれから見上げている事を意識するだろうから、疲れるかも」
「ヒールで対抗する? あなたも背を伸ばすの」
「それって歩きにくいじゃない」
二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
シィラが居てくれてよかったと、心から思う。
きっと、そう……わたし、シィラの事が好きなんだわ。
大切な友達だって、そう思ってる。
好きという事が分かって、何だか胸の奥がぽかぽかと温かくなる。きっとこれから、たくさんの好きを見つけられる。そんな予感に胸が弾んだ。
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