12.大切な思い出
「ヴィクトル様はいつから家事をしているんですか?」
夕食の席でそんな事を聞いてみる。
ヴィクトル様はガーリックトーストを手にしたまま、思案するように首を傾げた。
「最初にはじめたのは料理で、それは……確か十二歳の時だったはず」
「十二歳。ではもう……十年くらい経ちますか?」
「そうだね、十一年になるか。でも全部をやり始めたのは一人暮らしをしてからだから、五年目かな。学院を卒業したタイミングで、この屋敷に移ったんだ」
一人暮らしを始めて五年。それならあれだけ手際がいいのにも頷ける。
でも経験だけじゃなくて、きっとヴィクトル様は好きだから上手に出来るのだ。
好きという気持ちはそれだけ強いものなのだ。それが分からないわたしは、きっと……何か足りないのだと思う。
「どうして……家事をやろうと思ったのか、聞いても?」
「もちろん」
踏み込んだ質問かと思ったけれど、ヴィクトル様が不快な気持ちになっていないようで安心した。いつものように穏やかな笑みを浮かべてくれている。
ヴィクトル様は長い指で、トーストを一口大に千切りながら口を開いた。
「大した事ない理由だよ。使用人のしている事が、ひどく楽しそうに見えたから。汚れた場所を綺麗にしていくのも、変哲もない材料を使って美しくて美味い料理を作り出すのも、楽しそうに見えたんだ。ただそれだけ」
何でもないように話すヴィクトル様を、わたしは瞬きも忘れて見つめていた。
また胸がチリチリする。意識して握り締めないと、スプーンを落としてしまいそう。
「……ヴィクトル様は、素敵な目を持っているんですね」
だからこの人は優しいのだ。
人の努力を当たり前とせず、ちゃんと認めてあげられるのだ。
このお屋敷でお世話になってから、ううん、きっと研究所に居た時から。この人はわたしを気遣ってくれていた。わたしの頑張りを認めてくれて、わたしの事をちゃんと見てくれていた。
それはきっと、何よりも得難い優しさなのだろうと思う。
「他人の努力をちゃんと見ている。それは皆が出来るようでいて、きっと難しい事ですから。それを出来るヴィクトル様は凄いです」
「……そんな事は初めて言われたな。ありがとう、アンジェリカ」
ヴィクトル様はその綺麗な青い瞳を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
いつもよりも少し幼く見えるような、そんな笑みだった。
「でも楽しそうに見えたからといって、それを実際やってみるのは凄い行動力ですね。ご家族に反対はされなかったんですか?」
「されたよ。それは公爵家に連なる者のやるべき事ではないってね」
「……そうですよね」
だからヴィクトル様は一人で暮らしているのだろうか。
これ以上を聞くのは、踏み込みすぎだ。
そう判断したわたしは握ったままのスプーンでシチューを口に運んだ。塩気の強いサーモンが口の中でほろほろと崩れていく。濃い味のシチューとよく合っていて、美味しい。
「いまでは掃除も料理も洗濯も全部好きなんだけど。最初に興味を持ったのはお菓子作りでね、うちの料理人に教えて貰ってマドレーヌを作ったんだ」
ヴィクトル様はいつもと変わらない雰囲気で言葉を紡いでいる。反対されたと言っていたけれど、辛い過去ではないみたいだ。
それに少しほっとしてしまった。
「父も母も食べてくれなかった。それはお前のやるべき事ではありません、ってね」
サラダのブロッコリーを口に入れようとしていた手が止まってしまった。
天気の話をしているかのように、口調も声も柔らかだけど、そんな雰囲気で話していい事なのだろうか。
わたしの様子に少し笑って、ヴィクトル様はまた口を開いた。
「でも兄だけは食べてくれたんだ。最後までしっかり食べて、美味いって言ってくれた。初めて作るから不格好で、膨らみだって足りないし、変に甘ったるいマドレーヌなのにね」
そう言葉を紡ぐヴィクトル様の顔は、とても優しくて──美しかった。
ご両親に拒まれた辛い過去ではなくて、これは……優しくて大切で、素敵な思い出の話だったのだ。
「俺が料理やそれ以外の家事を好きで続けていられるのは、それのおかげ」
「素敵なお兄様ですね」
「そう。俺が少し拗らせてしまうくらいに素敵で優秀」
そう言ったヴィクトル様の瞳が少し翳っているように見えたのは、気のせいだろうか。素敵な思い出を語る優しい声と、いまの瞳が何だかちぐはぐで……わたしは戸惑いを隠せなかった。どちらも本当の気持ちのような、そんな気がしたから。
「自分で作ってみたサラダはどう?」
「あっ、美味しいです。ほとんどヴィクトル様がやってくれたんですけど……」
「そんな事ないよ。俺がしたのはタコを切ったのと、隣で口を出していただけ。味付けだってアンジェリカがやってくれたんだから、堂々と自分で作ったって言っていいよ」
「その味付けもヴィクトル様が全部教えてくれたじゃないですか」
「初めて料理を作る時はレシピ本を見るものでしょ。それと同じ」
「ヴィクトル様をレシピ本扱いするなんて、贅沢すぎて眩暈がしそうです」
もうすっかりいつもの調子に戻っている。
だからわたしもいつものように言葉を返してから、小エビのフリッターをフォークに刺した。
綺麗な色に挙がっているそれをまじまじと見つめると、溜息のような吐息が漏れてしまった。
「……わたしも続けていたら、料理が出来るようになるでしょうか」
「もちろん。興味がある?」
「ええ、楽しかったので。でも……不器用なのでいつか大怪我をしそうです」
先程のことだ。
フリッターを作るのに、衣をつけたエビを鍋に落とす時のこと。言われていたのに高い位置から落としてしまって、それはもう盛大に油を跳ねさせてしまった。
ヴィクトル様が後ろに引っ張ってくれたから、油を浴びる事はなかったのだけど……腕に少し当たってしまった。
肌に小さな水ぶくれが出来てしまったのだけど、ヴィクトル様があっという間に治して下さった。だから痛みを感じる事もなかった。
「まぁ気を付けるに越した事はないけれど、別に不器用ってほどじゃない。だからこれからも手伝ってくれたら俺は嬉しいよ。もちろん、気が向いた時だけでいいから」
「……お邪魔じゃないです?」
「邪魔じゃない。料理が楽しいって思ってくれたなら嬉しいし、いつかそれが好きって気持ちに変わるかもしれないだろ」
ああ、やっぱり優しい人だ。
わたしの好きなものを、一緒に探そうとしてくれている。
チリチリしていた胸が、何だかずくんと重く疼いた。
不思議なその感覚に慣れなくて、流し込むように水を飲んだ。
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