5.任務のために
「さて、落ち着いただろうか」
「はい……」
新しく淹れて貰った紅茶を早速いただく。蜂蜜が垂らされていて、優しい香りが鼻を擽った。その甘みに心が落ち着いていくのが分かる。
これもエーヴァルト様の気遣いなんだろう。
「改めて頼む。依頼を受けてくれないか」
わたしを見つめてくる金色の瞳に、先程感じたような圧はない。ただ真っ直ぐな願いだけが宿っているようだった。
「王家の為、女神様の為、精霊達の為、誠心誠意努めさせていただきます」
断る選択肢は最初からなかった。頭を下げられて驚いてしまっただけ。
わたしの事を必要としてくれている。キュラス教授が期待をしてくれている。
それが嬉しかったから。
わたしの言葉にスティーグ殿下もエーヴァルト様もほっとしたように息をついた。
いつもは無表情な殿下の口元が少し綻んでいるのが分かる。
「ありがとう。それでは早速なのだが──君には王城で生活して貰う事になる」
「王城ですか?」
「この件は機密である故に、人目のつく場所で解読をしてもらうわけにはいかないのだ」
「反女神、反精霊の危険分子もないわけじゃないからね。精霊王の目覚めが近いという事も秘密にしておきたいってわけ」
殿下の言葉に補足するよう、エーヴァルト様が言葉を紡ぐ。
それは確かにそうかもしれない。でも……あまりにも畏れ多い。
「研究所の個室などではだめなのでしょうか。防犯の魔法も重ねて構築しますので……」
「何かあってからでは遅いのだ。これから君に解読を頼む魔法書も、それ自体は写しではあるが大変貴重なものになっている。特定の者とはいえ大勢が出入りする研究所では心もとない」
「そう、ですよね……」
頷くしかないと分かっているけれど、王城に足を踏み入れた事なんてデビュタントの一度きりだ。
わたしの様子を見ていた殿下は、その視線をエーヴァルト様に向けた。
「王城で生活するのが不安ならば、ヴィクトルの屋敷はどうだ。お前は公爵家を出ているだろう」
「そうですねぇ……うちでもいいですよ」
予想外の提案に、あっさりとエーヴァルト様は頷いてしまう。
あまりの出来事に目を丸くしていると、わたしの顔を見たエーヴァルト様が肩を揺らした。
「私は公爵家を出て暮らしているから、誰かに気を遣う事もないし。王城よりも落ち着いて解読に励めるかもしれないよ」
「ご迷惑になりませんか」
「迷惑? とんでもない。仕事の依頼をしているのはこちら側だからね、君の仕事がスムーズに進むようサポートするのも当然でしょ」
王城より、お屋敷にお邪魔する方が緊張しないかもしれない。
そんな事を考えて、わたしはその提案に頷いてしまった。
「よし、では決まりだ。これは王命であり、世界に関わる重大な任務である。解読と魔法構築が終わるまで研究所への出勤は停止。もちろん給与は通常通り発生するし、今回の件については別に褒賞が出る事を約束しよう。君には所長からの直接任務の為に研究所を離れると、上司にはそう説明をする」
「ありがとうございます」
お給料が通常通りなら、家への仕送りも同じように出来る。それにほっとしながら殿下の言葉を聞いていた。
先程までより落ち着いた気持ちで話を聞けているのは、紅茶のおかげだろうか。殿下の纏う雰囲気が少し柔らかくなっているからかもしれない。
そんな事を考えながら、また紅茶を一口飲んだ。先程よりも甘みを強く感じるから蜂蜜が底に溜まっていたみたいだ。これも美味しい。
「申し訳ないが伯爵家に帰るのも、仕事が終わるまでは控えて貰いたい」
「分かりました」
家にはもうずっと帰れていない。
今になって、どんな顔をして帰ったらいいのか分からない。そう思いながらも、もし両親が帰ってくるよう言ってくれたら、すぐに帰ってしまうんだろうな。
「よし、では誓約に進もう。ヴィクトル、準備を」
「出来てますよ」
エーヴァルト様がテーブルの上に魔法布を広げると、描かれていた魔法陣が強く青い光を放ち始めた。
魔法陣の中央には長々と契約と誓約についての事が書かれているけれど、簡単に纏めると先程の依頼内容とそれを他言しないという事だった。
わたしがそれを確認したのを見計らって、エーヴァルト様は三つの指輪が載った台座を中央に置く。わたしと殿下、エーヴァルト様のものだろう。
「ブランシュ研究員、魔法署名を」
「はい」
殿下に言われるまま、魔法陣の片隅に指を乗せる。魔力を込めて【アンジェリカ・ブランシュ】と記名すると、その名前が青く光った。
殿下とエーヴァルト様も指先に魔力を込めて、同じように署名をしている。
「では指輪を」
台座から一つ取り、それを左手の中指へと嵌めた。
ここまで大掛かりな誓約は初めてだけど、今回の事案を思えばそれも当然だと納得した。
皆が指輪を嵌めると、エーヴァルト様が詠唱を始める。
低くて滑らかな、聞いていて気持ちのいい詠唱だった。
魔法が発動し、魔法陣が一層強く光を放ったかと思うと、その光はわたし達のつけた指輪へ飛び込んでくる。大きかった指輪はしゅるしゅると縮んでわたしの指にぴったりのサイズになり、皮膚と癒着して離れないようになっていた。
役目を終えたとばかりに魔法布は光を失って、魔法陣も消えてしまった。
「依頼が終わればこの指輪は外れるようになっている。誓約に触れるような事があれば指輪が警告の意味をもって熱を持つから、注意するように」
「かしこまりました」
「では早速今日からヴィクトルの元で生活して貰う。外出する際はヴィクトルの許可を取るようにしてくれ」
「はい」
話も終わり、わたしは一礼をしてからエーヴァルト様と一緒に所長室を後にした。
このまま寮で荷物をまとめ、早速お屋敷へ向かうらしい。
「受け持っている仕事なんだが、他の者に回しておくから心配しなくていいぞ」
「ありがとうございます」
「聞かれるのも面倒だから、荷物だけ持って研究所を離れたい。構わないか?」
「はい。あ、では……申し訳ないのですが、オルソン研究員にわたしの論文を渡すように手配をお願いできますか? 精霊魔法と古代魔法の相対性についてまとめたものなんですが」
「分かった。研究所から持ち出すものはある?」
「バッグを持ってきたいです」
シィラが研究室に持って行ってくれているはずだ。それを告げるとエーヴァント様が承知したと頷いてくれた。
ジャケットの襟元を口に寄せ、小さな声で何かを話している。襟元のピンは通信機になっているから、きっと事務室にいるシィラに連絡をしてくれたのだろう。
「持ってくるよう頼んだから、私達は寮に向かおうか。こちらでも生活に不便しないように整えるが、持ってきたいものもあるだろう?」
「ありがとうございます」
気遣いが有難いけれど、何を持っていけばいいだろう。
制服と、少しの私服だけを持っていこうか。あとは読みかけの本くらいしか部屋にはない。荷造りにかける時間が少なくて済みそうだ。
「あの、エーヴァルト様」
「なんだ?」
「本当にご迷惑ではないのでしょうか」
「迷惑なら了承しないよ。君は何も気にせず、心も体も健やかにしながら仕事に取り組んでくれたらいい。ああ、でも──」
言葉を切ったエーヴァルト様は身を屈めてわたしと目線を近付けてくれる。
「残業は禁止。しっかり食事も睡眠もとってもらうからな」
優しい声。口元には笑みも浮かんでいるのに、有無を言わせない響きがあった。
わたしは何度も頷く以外に出来なかった。
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