6.同居のはじまり
転移魔法独特の眩暈がした。ぐらりと傾ぎそうになる体を何とか押し留め、ゆっくりと息を吐く。吐き気を催す程ではない。短い距離だったのが幸いだった。
わたしとエーヴァルト様が立っているのは、お屋敷のエントランスホールだ。
ホールの床には花の絵が光で描かれている。玄関扉の上にあるステンドグラスに描かれている花々が光を通して映し出されているようだった。
ここはエーヴァルト様のお屋敷。
寮で荷物を纏め、シィラからバッグを受け取った後に転移をしてきたのだ。
わたしの荷物は全てエーヴァルト様が持ってくれている。
女性に持たせるわけにはいかないと気を遣ってくれたから、申し訳ないけれど甘える事にした。
「なぁ」
「なんでしょう」
お屋敷に人の気配はない。不思議に思いながらエーヴァルト様に返事をすると、わたしの荷物を持ち上げたり下ろしたりを繰り返している。
「やっぱり荷物が軽すぎると思うんだが、忘れ物はないのか?」
「それで全部です。元々、そんなに物を持っていないんですよ」
軽すぎる自覚はある。わたしも貴族の端くれだし、令嬢は色々と必要なものが多いのは妹を見て分かっているつもりだ。
でも、わたしには必要のなかったものだ。
「まぁ、足りないものがあれば用意するから何でも言ってくれ」
「ありがとうございます。あの……エーヴァルト様はこのお屋敷で暮らしてらっしゃるんですよね? 使用人の方はどちらに?」
「あー……」
お世話になるのだから挨拶は大事だろう。
そう思って問いかけたのに、エーヴァルト様は何となく気まずそうに笑うばかりだ。
人がいるようには思えない。でもそれにしては清潔さが保たれている。
「使用人はいない。家事は私がやっているんだ」
「エーヴァルト様が?」
驚きに目を瞠っていると、「こっちだ」と先を行ってしまう。置いて行かれないように慌てて後を追いかけた。
「私一人で暮らしているだけだし、屋敷も大きくないからな。家事も好きだし、何でも自分で出来るんだ」
確かに貴族の屋敷にしては小さい方なのかもしれないけれど、部屋数だってそれなりにあるように見える。一人で管理するのは大変なのではないだろうか。
「大きくないとはいっても、充分広いお屋敷だと思います。これを一人で管理しているなんてすごいですね」
わたしの言葉に足を止めたエーヴァルト様は振り返り、怪訝そうな視線をわたしに向けている。
それはきっと、わたしが嫌悪を露わにしなかったからだろう。
貴族でも特に高位貴族は家事をしない。それは使用人の仕事だという意識が強いからだ。
「どこを見ても綺麗ですし、気持ちのいいお屋敷だと思いました」
「引かないのか?」
「わたしは寮暮らしですし、お部屋の掃除は自分でやっていましたから」
「……そうなのか」
寮暮らしをしている貴族子女は少なくないが、部屋の掃除は使用人に任せている人がほとんどだ。侍女が通って朝の支度をするというのも当然のこと。
わたしは一人で出来るから問題なかった。
それよりも。
ここのお屋敷に使用人がいないというなら、わたしとエーヴァルト様は二人きりという事になってしまう。
緊張するとか恥ずかしいとか、そういう事は感じなかった。そういうものは同じ場所に立てるほどの人が持つ感情で、わたしには縁がない。
それよりも……エーヴァルト様に不名誉な噂が立たないか、それが心配だった。
「このお屋敷に、エーヴァルト様とわたしで過ごすんですか?」
「ああ。……いや、待て。心配しなくても手を出すような事はない。信用してくれとしか言えないんだが」
「あ、それは心配していなくて。エーヴァルト様が懇意にされている方がいらっしゃるのなら、この状況は大変まずいのではないかと思いまして……」
妹ならともかく、わたしにエーヴァルト様が何かを思うわけがない。
それは分かっているから勘違いもしないし、変に意識もしない。
「そんな相手がいたら、今回の件は了承していないさ」
「それを聞いて安心しました」
「家の事は私がするが、君の世話をする為に王城から使用人が一人通ってくれる事になっている。部屋の事や、身の回りの世話はその使用人に任せるように」
「ありがとうございます」
お屋敷に慣れるまでは手を借りた方がいいだろう。
エーヴァルト様が家事をするというなら、そのお手伝いもさせて貰いたい。きっといつか、それがわたしの助けになるだろうから。
伯爵家にいれば必要のない事かもしれないけれど……出来る事が増えるのはきっといい事だ。
エントランスから中央階段を上り、東側へと進む。中央階段を挟んで左右対称の造りになっているお屋敷は迷う事がなさそうでほっとした。
エーヴァント様は東側の一番奥の部屋まで進むと扉を開けてくれる。
そこは客室のようで、ベッドや応接セット、ドレッサーに書き物机などが用意されていた。
「ここを使ってくれ。あのドアは浴室になっている。クローゼットはここになるから、荷物など好きに入れてくれたらいい」
「はい、ありがとうございます」
「作業をする部屋は地下に用意する。作業は明日から始めてもらおうと思うが、構わないか?」
「大丈夫です」
「屋敷内ではこのイヤーカフをつけてくれ」
手渡されたイヤーカフは銀色をしていて、耳に引っ掛けるタイプのものだった。耳裏を通り、耳朶にあたる場所には青い魔石が揺れている。
通信機器のようだけど、それ以外にも何かあるような気がする。構築式を確かめてみたいけれど、分解するわけにもいかない。
「通信機の他に、この部屋と作業部屋の鍵も兼ねている。通信の仕方は分かるか?」
「魔石に魔力を流せばいいんですよね?」
「その通り。部屋に入る時には、ドアノブ下の魔石に魔力を流すと、この鍵と反応するようになっている」
「……この魔導具、初めて見ました。流通していないですよね?」
とても便利な魔導具なのに見た事がない。
不思議に思って問いかけると、エーヴァルト様はいつものように穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
「私が作ったものなんだ。他言無用で頼むよ」
魔法に秀でているのは分かったつもりだったけど、魔導具の開発まで出来るなんて。驚きに目を瞬いていると、エーヴァルト様はおかしそうに低く笑った。
「夕食が出来たら呼ぶから、それまでゆっくりしていてくれ」
「分かりました。お手伝いする事はありますか?」
「いや、大丈夫。君は嫌いなものはあるか?」
「特には思い浮かばないです」
「好きなものは?」
嫌いなものも、好きなものも思い浮かばない。
「いえ、それも特に」
「……そうか」
一瞬目を瞠ったエーヴァルト様の様子に、これはおかしい答えだったのだと理解した。
どう取り繕ったらいいのか口籠るけれど、エーヴァルト様はそれ以上追及する事がなかったから、わたしは胸を撫でおろした。
「ではまたあとで」
「はい」
エーヴァルト様が部屋を出ていくと、カチリと鍵が閉まった音がした。
さて。まずは荷物を解こうか。
そう思ってエーヴァルト様が運んでくれていた小さなトランクを床で開く。
中に入っていた二着のワンピースをクローゼットに掛けた。
わたしが着るには可愛らしいワンピースはシィラのお家がやっているお店で買ったものだ。寝着と下着もクローゼットにしまったら、それでおしまい。
トランクに残っているのは数冊の本だけで、それも本棚に並べてしまう。
やる事もなくなってしまったわたしは、ソファーに座って本を読む事にした。
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