7.食卓を囲む

 夕方になって、イヤーカフからエーヴァルト様の声が聞こえてきた。夕食を告げるそれに返事をしてから、読んでいる途中の本に栞を挟む。

 両腕を上げて大きく伸びをすると、凝り固まっていた背中が解れていく感覚が気持ちいい。


 わたしは立ち上がると着たままだった白衣を脱いで、それを軽く畳んでからソファーに置いた。研究所の制服姿だが問題ないだろう。

 部屋を出て扉が閉まると同時に、鍵のかかる金属音が廊下に響いて消えていった。



 一階に降りて、右手側に進む。

 こちらには食堂やキッチンがあると聞いた。エントランスホールを挟んで反対側には図書室と応接室、サロンがあるらしい。あとで図書室を見せて貰いたいから聞いてみようと思った。


 食堂からはいい匂いが漂ってくる。そんな匂いが鼻を擽るものだから、空腹を訴えるようにお腹がなってしまった。お腹をそっと片手で押さえつつ、食堂を覗くとエーヴァルト様が料理の載ったお皿を並べているところだった。


「お、来たな」

「すみません、遅くなってしまって」

「いや、いい時間だ。さぁ食べよう」


 エーヴァルト様が引いてくれた椅子に腰を下ろす。

 こんな風にして貰うのもいつ振りか分からなくて、少し戸惑ってしまう。まだ家族で食卓を囲んでいた時には、執事が椅子を引いてくれていたと思うけど……もうあまり覚えていない。


 エーヴァルト様はわたしと向かい合う席に座る。

 正方形のテーブルは大きいものではなく、二人分の料理が並ぶともういっぱいになっていた。


 わたしは両手を組んで、女神様と精霊へ感謝の祈りを捧げた。

 恵みをいただける事に感謝をしてからゆっくりと手を下ろす。見ればエーヴァルト様も祈りを捧げ終えたところだった。


「晩餐ではなく、日常の食事だ。形式ばった事は気にしないで、気になるものから好きに食べてくれたらいい」

「ありがとうございます。では遠慮なくいただきます」


 いつも携帯食料ばかり齧っているわたしに、気を遣ってくれたのかもしれない。伯爵令嬢の身分があるとはいえ、わたしはマナーについて自信がない。だから正直なところ、とても気持ちが楽になった。

 並んでいるのはにんじんのラペ、ホタテのマリネ、それからローストビーフ。ポタージュは薄い緑色をしていて、とても綺麗。それに柔らかそうな丸いパンが添えられている。


 わたしはスプーンを手に取ると、まずはポタージュからいただく事にした。

 スプーンを沈めて掬ったポタージュを口に寄せる。優しい豆の香りがした。飲んでみると驚くほどに甘くて、飲みやすい。


「……美味しいです」

「口に合ったようで良かった」

「これは全部エーヴァルト様が作ったんですか?」

「ああ。中々の腕前だろ」

「もしかして、昨日差し入れて下さったあのサンドイッチも……?」

「あれも」


 エーヴァルト様はローストビーフを大きな口で食べている。

 それがあまりにも美味しそうに見えたから、わたしもお肉を食べる事にした。うっすらとピンク色のお肉を小さく切って口に入れる。簡単に嚙み切れてしまう程に柔らかなお肉が少し甘くて、とても美味しい。


「サンドイッチもとても美味しかったです。どこのお店で買ったんだろうって思ってました」

「それは嬉しいね。君の好きなものも作るから、食べたいものがあったら何でも言っていいよ」

「ありがとうございます」


 そう言われても何も思い浮かばない。

 でもその言葉がなんだかとても嬉しかった。

 

 そういえば、誰かと食卓を囲むのを久し振りだ。

 寮の食堂で食べるのとはまた違う、同じテーブルで向かい合って、お話をしながら食べる──食卓。

 何だか胸の奥がぽかぽかと温かい。いつもよりも食が進むのは、ご飯が美味しいからなのか。それとも一人の食事じゃないからなのか。

 どちらも正解なんじゃないかなと思う。


 口元が綻ぶのを自覚しながら、次ににんじんのラペにフォークを伸ばした。にんじんと薄皮の剥かれたオレンジ、それからレーズンが混ぜられている。食べてみると酸味と甘さが爽やかだった。口の中がさっぱりして美味しい。


「そういえば、しばらくここで生活をしてもらうわけだけど……君の事をアンジェリカと呼んでもいいだろうか。ブランシュ研究員と呼び続けるのも研究所の延長のようで、落ち着かないんだ」

「はい、大丈夫です」


 正直なところ、少し驚いた気持ちはある。

 異性に名前で呼ばれるなんて初めての事だったから。ドキドキしてしまうのは慣れていないからだ。そう判断しつつ、わたしは頷いた。

 確かに研究員と呼ぶのは、仕事場みたいだと思う。わたしにとっては仕事場だけど、エーヴァルトさまにとっては家なのだ。


「私の……いや、家だから言葉を崩すのも許して欲しい。の事もヴィクトルと呼んで貰えるか」

「いえ、それはちょっと……」


 さすがにそれは畏れ多い。

 自分の呼び名を受け入れておいて、相手を呼ぶのは断るのも少し気まずくて、曖昧にぼかしながら柔らかなパンを小さく千切った。


 エーヴァルト様は不服そうに目を細めて、わたしをじっと見つめている。

 そんな中でパンを口に運ぶこともできなくて、わたしはお皿の上にパンを置いた。


「エーヴァルトというのは家名だ。いま君の前に居るのはヴィクトルという個人なんだが」


 確かに、それはそうなのだけど。

 

「俺がそう願っているんだ。何も気にせず呼んでくれないか」


 言葉を重ねられて、それ以上断り続けるのも失礼な気がしてきた。

 このお屋敷にいる間だけだし、いいのかもしれない。外に出れば【エーヴァルト様】と呼べばいいのだ。


 そう納得したわたしはひとつ頷いた。


「分かりました。ではヴィクトル様とお呼びします」

「ありがとう」


 わたしの返事に満足したのか、ヴィクトル様は嬉しそうに笑う。

 なんだか不思議な気持ちになって、わたしはその気持ちをパンと一緒に飲み込んだ。


***


 食事を終え、わたしは部屋に下がらせてもらった。

 そのタイミングで王城からやってきた使用人に手伝って貰って湯浴みを済ませる。部屋に備え付けの浴室はとても広くて、豪華だった。

 使い方を教えて貰ったから、明日からは自分でどうにか出来るだろう。


 朝の支度も自分で出来ると伝え、使用人には部屋の掃除やお洗濯などをお願いする事になった。教えて貰えば、きっとそれらも自分で出来るようになる。


 使用人が下がってから、寝台に潜り込む。

 広くて少し落ち着かないけれど、きっとすぐに慣れる。……慣れ過ぎてしまうと、寮に戻った時に大変かもしれないからその辺りは気を付けないと。


 ふわふわとした寝台の柔らかさと、石鹸の香りが気持ち良くて眠気に襲われる。

 小さな欠伸を漏らすと、それを合図としたようにわたしの意識は沈んでいった。


 

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