4.予想外のお話

 やってきた所長室の前でわたしは深呼吸を繰り返した。

 装飾が施された重厚な黒い扉は、周囲の白壁に比べて威圧するような雰囲気を出しているようにも見える。

 それはわたしが叱られにきているから、そう思うだけなのかもしれないけれど。


 意を決して、扉をノックする。

 すぐに扉が開かれて、エーヴァルト様が微笑みながら迎え入れてくれた。


「アンジェリカ・ブランシュ研究員、参りました」

「呼び出して悪かったね」

「いえ、大丈夫です」


 エーヴァルト様の纏う雰囲気は柔らかいけれど、だからといって安心するわけにはいかない。これから所長に叱られるのだろうから。


 エーヴァルト様に招かれるままに部屋へと入り、所長である第二王子殿下の座る執務机の前へと歩みを進めた。

 王族であるが、研究所内では上司にあたる。研究所の中では家格の差はないとされている為、貴族としての臣下の礼ではなく、部下として頭を下げるに留まった。


「ブランシュ研究員、君に頼みたい事があるんだ」


 話しかけられて頭を上げたわたしは、予想外の言葉に目を瞬いた。

 叱られると思っていたのだけど、頼み事……?


 執務机に座っている所長──スティーグ第二王子殿下の顔に何も表情は浮かんでいない。所長はいつも顔に表情を出さないから、所長が何を考えているのか読み取れそうになかった。

 顎下で整えられた紺色の髪に、王族のみが持つ金色の瞳。整った顔立ちなのもあって、無表情で見つめられると少し緊張してしまう。頼み事と言われて余計に戸惑ってしまった。


 何を頼まれるのか分からないのだけど、きっと断る事は難しいのだろう。そう思って了承の返事をしようとした矢先、所長は席を立った。そのまま隣の部屋へと足を向け、ちらりとわたしを振り返った。


 ついてこいと、そういう事なのだろう。


「さ、行こうか」

「……叱られるのかと思っていたんですが」

「叱る? 何で」

「残業ばかりしているので」


 思わず漏らした言葉にエーヴァルト様はおかしそうに肩を揺らした。


「別にそんなんじゃ叱らないよ。早く帰ってほしいのは山々だけど」


 そう言いながらエーヴァルト様はわたしの背を押す。

 叱られない事にほっとしていいのか、それとも頼み事をされる方が厄介だったのか。わたしにはまだ判断がつかなかった。


***


 隣の部屋は応接室になっていた。

 所長室に入る事など滅多にないし、入ってすぐの執務室しか見た事がなかったから、なんだか緊張してしまう。


 テーブルを挟んで所長と向かい合うように勧められたソファーに座ると、エーヴァルト様がお茶を用意してくれた。

 わたしと所長の前に置かれたティーカップには、香りのよい紅茶が満たされている。


「ヴィクトル、防音を」

「はい」


 一人掛けのソファーに座ったエーヴァルト様が、空中に指で小さな魔法陣を描く。短い詠唱の後、この部屋が魔法に包まれたのが分かった。

 声も物音も遮断する魔法だけど、あんなに短い詠唱で発動させるなんて……エーヴァルト様は魔法に秀でているという噂は本当だったらしい。


「ここからは所長ではなく、王族として話をさせて貰っても構わないだろうか」

「はい」


 王族として──スティーグ・トーレ・ルーストレーム第二王子殿下としてのお話になるという事は、わたしが思っているよりも重要な話なのかもしれない。

 そんな事を思ったら自然と背筋が伸びていた。

 わたしの返事にスティーグ殿下が頷くと、紺色の髪が顎の側でさらりと揺れた。


「女神の神話は知っているな? 精霊王が生まれるほどに善き心で過ごせば女神が降臨するというアレだ」

「はい、存じております」


 はるか昔のこと。

 この世界は一度滅びを迎えている。力を与えられて傲慢になった人々が神々に戦いを挑んで、滅ぼされているのだ。

 神々がこの世界を見捨て、新たな世界を築こうとしている中──唯一、女神シュエルヴェだけがこの世界に留まった。シュエルヴェ様は生き残った人々に精霊を与え、こう仰ったという。


【善き心を持ち、精霊に恥じない振る舞いをしなさい。精霊達と信頼関係を築き、いつか精霊王が生まれる程に善き心で過ごした時には、また私は現れます。その時にはこの世界を守りましょう】


 頭の中で神話を思い出していると、スティーグ殿下の金色の瞳がわたしを真っ直ぐに見つめていた。金色の瞳に囚われて、何だか息が出来なくなるような感覚に陥った。


「殿下、そんなに見つめたらブランシュ研究員も緊張しちゃうでしょう」

「そうか。これから大事な話になるから集中しようと思っただけなのだが」


 エーヴァルト様の言葉を受けて、スティーグ殿下が視線をずらしてくれる。それにほっと息をつきながら、わたしは紅茶のカップを手に取った。

 飲みやすい温度の紅茶を口に含むと、ふわりと花の香りがした。音を立てないようにカップをソーサーに戻すと、それを待っていたかのようにスティーグ殿下が口を開いた。


「ここから先は機密事項になる故、後ほど守秘の誓約をしてもらうが構わないだろうか。この件について口に出来なくなるだけで、生活する事に問題はないようにするが」

「大丈夫です」


 やっぱり重要なお話だった。王子殿下直々にお言葉を頂戴するのだから、簡単なお願い事ではないとは思っていたけれど。

 わたしの返事にまた頷いたスティーグ殿下は、紅茶のカップを手に取った。口元に運ぶその所作も洗練されている。


「教皇が女神からの言葉を受け取った。神話にある精霊王が目覚めを迎えようとしているそうだ」


 教皇とは女神光教の大神殿にいらっしゃる最高位の神官だ。

 この世界の国々は女神様を信仰していて、それが女神光教。世界のはじまりである、この国──ルーストレーム王国には光教の大神殿があり、教皇様はそこで祈りを捧げている。


「精霊王が目覚めるということは、大多数の人々が善き心で過ごしてきたという証だから、それはめでたい事であるのだが……ここで一つ問題が起きた」

「問題、ですか」

「そう。精霊王を目覚めさせるには儀式が必要なのだが、その儀式を完成させるにはある魔法が必要となるらしい」


 一つの問題と、必要な魔法。

 スティーグ殿下の頼み事というのは、その魔法に関する事で間違いないのだろう。

 この先の話を予感して、何だか緊張感が高まってしまう。膝の上で白衣の布地をぎゅっと握り締めた。


「当然といえばそうなのだが、それは古代魔法になる。魔法書はあるが古代文字で書かれていて解読が必要だし、いまの我々が使うには再構築が必要になるだろう。それをブランシュ研究員、君に頼みたい」


 予想通りといえばそうだし、予想よりもだいぶ難しいものでもあった。

 わたしはカップを手にして、少し冷めた紅茶を口に含む。緊張に乾いていた喉が潤って、なんとか声が出せそうだった。


「あの……確かにわたしは古代文字を扱う事が出来ますが、もっと優秀な方がいらっしゃるのではないでしょうか。もちろんお手伝いはさせていただきますが、古代文字の権威といえばキュラス教授です」

「そのキュラス教授に、君を推薦されたんだ」


 驚きに言葉が出なかった。

 キュラス教授はわたしの恩師だ。魔法学院に入学したわたしに研究の手伝いをさせてくれて、古代文字を教えてくれた先生だ。

 厳しいけれど優しい人で、生活面でもわたしを支えてくれた人。魔法学院を無事に卒業出来たのは教授のおかげといっても過言ではなかった。


「教授が、わたしを……」

「そう。キュラス教授は君以上の適任はいないと言っていた。これは私個人の頼みではなく、王家と女神光教からの依頼である。どうか頼まれてはくれないだろうか」


 そう言ったスティーグ殿下は深く頭を下げた。

 あまりの衝撃にわたしはソファーから立ち上がり、床に座るしか出来なかった。王子殿下に頭を下げさせるなんて、それがどれだけ不敬な事なのかは分かっているつもりだ。


「で、殿下! お顔をお上げ下さい!」

「ブランシュ研究員もソファーに戻ろうな」


 わたし達のやりとりに苦笑いをしたエーヴァルト様は立ち上がり、わたしの腕を引いて立ち上がらせてくれる。殿下も頭を上げて下さったけれど、あまりの出来事に心臓がばくばくと騒がしくて落ち着かない。


 ソファーに座らせて貰って、新しい紅茶が用意されるまで、わたしは放心状態だった。

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