3.叱られるのには理由がある

 今日は穏やかな風が吹いていて気持ちがいい。青い空に、ぷかりぷかりと浮かんだ雲がゆっくりと流れていく。

 春の精霊達も目覚めを迎えたようだ。精霊と共に暮らすこの世界は、四季の巡りもそれぞれを司る精霊次第。今年は暖かくなるのが少し遅かったから、春の精霊の中にお寝坊さんがいたのかもしれない。


 お昼休みになって、わたしは研究所の事務室で実家への送金手続きをしてきたところだ。

 貯めておいたお金は減ってしまったけれど、これで母が喜んでくれるならそれでいい。今月買おうかと思っていた本を、来月にすればいいだけだ。もしかしたら図書館に入っているかもしれないし、それなら買う必要もなくなる。


 家族の為になる事をした。

 その満足感に足取りも軽くなった。


 まだ午後の就業時間に時間はあるけれど、食堂でゆっくり食事をとる余裕はないかもしれない。慌てるのも好きじゃないし、天気もいいことだし、今日は中庭のベンチで食べよう。


 そう思いながら中庭に向かうと、噴水を囲むように配置された幾つかのベンチはすでに埋まっていた。みんな外で食べたくなるのは同じようだ。

 芝生にシートを敷いて食べている人達もいる。それもいいなと思って、端っこの木の下に腰を下ろした。


 バッグの中に入れておいた携帯食料を一つ手に取った。

 木に寄り掛かりながら手のひらサイズの四角い包みを開けていく。中には長方形のビスケットが二つ入っている。ビスケットよりも固くて、もそもそしているけれど。

 蜂蜜の香りがふわりと漂い、味もそんなに悪くない。


 一つを食べ終わり、ふぅと一息をついた時だった。

 先輩にあたる研究員がわたしに向かって手を振りながら歩いてくる。


「またそれを食べてんのか。ちゃんと食堂に行って飯を食え」

「時間がなかったんです。慌てるのも好きじゃないですし」

「面倒なだけだろ。研究員だって体が資本なんだからな」


 彼はラウリス・オルソン研究員だ。

 隣の研究室に所属している人だけれど面倒見がよく、後輩達にも慕われている。こうして研究室の違うわたしも気にかけてくれるくらい、優しい人だった。


 ラウリス先輩は短く整えられた黒髪を掻きながら、わたしの前にしゃがみこんだ。


「アンジェリカは相対性理論についての論文を書いていたよな? 急ぎじゃないんだが、近いうちにちょっと見てほしい研究があるんだ」

「ええ、いいですよ」

「ありがとう。礼はするからな」


 ラウリス先輩は明るい緑色をした瞳を優しく細めている。

 わたしでお手伝いできることがあるなら、力になるつもりだ。頼られるのは嬉しいし、出来る事があるのも嬉しいから。


「アンジェリカー!」


 中庭に響く大きな声に、思わず持っていた携帯食料を落としそうになってしまう。

 注目を浴びながらこちらに駆け寄ってくる友人に、ラウリス先輩も苦笑いだ。


「じゃ、よろしく。昼からも頑張ろうな」

「はい」


 立ち上がって去っていくラウリス先輩に軽く会釈をしながら、友人はわたしの元へとやってきた。

 事務官をしている友人──シィラ・アーネルだ。肩まで伸びたウェーブがかった焦茶の髪はハーフアップにまとめられて、綺麗な髪飾りで留められている。

 

 シィラはわたしの手にしている携帯食料を見て、形の良い眉を顰めた。

 彼女はわたしが携帯食料を食べるのを、よく思っていないのだ。


「ちゃんと食事を取りなさいって言っているでしょう」

「今日は時間がなかったのよ」

「今日も、でしょ」


 大袈裟に溜息をついたシィラはわたしの隣に腰を下ろす。肩に掛けていた大きなバッグを下ろすと、その中から可愛らしいリボンの掛けられた小さな包みを取り出した。


「実家で新しく取り扱う事になったお菓子なの。薔薇のジャムが練り込まれているんですって。良かったらどうぞ」

「いいの? ありがとう。休憩時間にいただくわね」


 差し出された包みを受け取って膝に置いた。よく見ればリボンは花の形に結ばれている。

 シィラの実家は王都で色んなお店を出している商会だ。先日は新しくカフェも開店したらしい。


「そういえば大きな声を出すのも珍しいわね」

「私だって大声くらい出るわよ」

「いつもあんな声を出さないでしょ」


 シィラはいつも落ち着いている。少し低めの声も耳に優しく、穏やかな雰囲気が一緒に居て気持ちがいい。


「オルソンさんと何の話をしていたの?」

「研究を見てほしいって頼まれたの。わたしが以前に書いた論文に関わるようなものらしくて」

「そうだったの。人を助けるのもいいけど、ちゃんと自分も大事にしなさいよね」

「ふふ、分かっているわ。ありがとう」


 シィラは優しい。

 無理をしていないかとか、いつもこうやって気にかけてくれる。それに応えられるわたしでありたいとは思っているのだけど、シィラから見たらわたしはいつも無理をしているらしい。

 本当にそんな事はないのだけど。


「昨日だって遅くまで残っていたんでしょう?」

「どうして知っているの?」

「やっぱり」


 シィラは黄緑色の瞳を眇めさせ、大きく肩を竦めて見せる。

 引っ掛かってしまった。そう気付いたわたしは誤魔化すように笑う事しか出来なかった。


「そんな残業ばかりしているあなたに呼び出しよ」

「呼び出し?」

「そう。昼休憩が終わったら所長室に来るようにって、エーヴァルト秘書官が」

「……叱られるのかしら」

「大人しく叱られてきなさい」


 腕時計に目をやると、午後の始業までもう時間がない。

 食べかけの携帯食料を口に放り、膝に置いていたクッキーの包みをバッグにしまった。


「喉を詰まらせるわよ」


 呆れたようなシィラの言葉にも返事が出来ない。口の中がビスケットでいっぱいだからなのだけど。

 そんなわたしを見てシィラは笑う。口元にあるほくろがとても色っぽかった。


「ほら、もう時間がないから行ってきなさい。バッグは置いてきてあげる」

「ありがとう。じゃあ……叱られてくるわ」


 研究室に置いてきてくれるというから、それに甘えてバッグを預けた。

 これで真っ直ぐ所長室に行けるけれど……足取りが重くなるのは仕方がない事だと思う。


 叱られると分かっている場所に行くのだから。

 でも悪いのは自分だし、行くしかない。小さな溜息は春の風に溶けていった。

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