34.宛名

 ヴィクトル様の執務室の前で、わたしは乱れてしまった呼吸を整えようと深く息を吐いた。

 胸に手を添えて、深呼吸を繰り返す。浮かんでいた涙ももう治まっているし、いつもと同じ姿になっているはずだ。


 ドアをノックしようと手を挙げる。拳がそれに触れるよりも早く、ガチャと音を立ててドアが開いた。開いてくれたのはヴィクトル様で、いつものような温和な笑みを浮かべている。


「おかえり」

「……ただいま戻りました」


 優しい声にほっとしてしまう。落ち着いていたはずの感情がまた揺らいで、声が詰まってしまいそうなる。それを微笑みに隠して、招き入れてくれるままに執務室にお邪魔した。


「何かあったのか?」


 わたしの背に手を添えて、ヴィクトル様がソファーへと促してくれる。そこに座るとヴィクトル様が隣に座ってくれた。距離の近さに安心してしまうのは、わたしがヴィクトル様をお慕いしているからだろうか。


「あの……オルソン研究員がわたしの仕事内容を外部の者に漏らしています。わたしがヴィクトル様のサポートを受けていると」

「……なに?」


 ヴィクトル様の声が低くなる。

 わたしが研究所で仕事をしていない事は秘匿されているものではないけれど、だからといって無関係の者に軽々しく言っていいものではない。研究所内での事は口外しないというのが不文律だ。


「それを漏らしていたのは、わたしの妹……エドラ・ブランシュに対してです。彼女は今日、研究所の会議室にいました。……申し訳ありません」

「君が謝る事じゃない。共同研究の話は?」

「聞けませんでしたし、お断りしようと思います。共同研究の話よりもまず、家族間の拗れを解決した方がって……何を言っているんですかね。拗れるも何も、わたしは家族じゃなかったのに」


 思い出しただけで気持ちが悪くなってくる。深い溜息を洩らしたわたしの背にヴィクトル様の手が回り、そっと優しく撫でてくれた。


「君の妹は何の用でやってきたんだ?」

「それが、その……ヴィクトル様を、エドラに紹介するようにと」

「は?」


 低い声だった。思わずびくりと肩が跳ねるくらいに、低くて怒りを帯びた声。

 ヴィクトル様から放たれる圧が恐ろしくて息をうまく吸えないでいると、それに気付いたヴィクトル様が困ったように眉を下げる。「すまない」という謝罪の声は、先程までとは違ってひどく優しいものだった。


「もちろんお断りしていますので……」

「ああ、分かってる。君がそれに頷かないというのはね。君に怒っているわけじゃなくて……ああ、くそ」

「妹が失礼な事をすみません……」

「謝らないで。君に非は一切ないんだから」


 それでも、やっぱり申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 でもこれ以上謝罪の言葉を口にしても、ヴィクトル様が困ってしまうだけだろう。


「あとは?」

「……あと」


 問われているのに、確信めいているような、そんな声だった。

 まだ何かがあったのだと、ヴィクトル様は気付いている。


「オルソン研究員が君の妹に協力する理由がない。彼にも何か利があるんだろう?」


 言われたらその通りだ。

 黙っていても仕方がないし、わたしはそれに頷いた。


「ヴィクトル様を紹介したら、隣国へ嫁がないようにしてくれると。その場合は……ラウリス先輩と結婚したらいいと、そう言われました。先輩もそれを承諾しているようでした」

「……なるほどな」


 貴族令嬢であるわたしが嫁ぐには陛下の許可がいる。しかし国内での婚姻なら、余程の事がない限り承認される。

 わたしがいくら厭うても、伯爵家に籍がある限り、父の決定に従うしかないのだ。


 ラウリス先輩に嫁いで、わたしは幸せになれるのだろうか。

 家族になれるのだろうか。

 明るい未来を思い浮かべる事が出来ないのは、先程の会議室での彼の姿が信用出来ないものだったからなのか。

 それとも……この恋心のせい?


 叶わない恋をしている時点で、幸せな結婚は望めないだろう。でも……それなら、ずっと一人で居られたらいいのにと思う。

 一人で、この恋心を大切にしながら生きていけたらいいのに。


 そんな事を考えていたら、わたしはヴィクトル様に抱き寄せられていた。

 温もりと、自分とは異なる鼓動が伝わってきて、何だか泣きたくなってくる。


 こんなにも落ち着く場所を知ってしまったら、一人で生きていくのも辛くなってしまうのに。

 でもこの腕の中から抜け出す事も出来なかった。


「安心してくれ。俺がそんな結婚はさせないから」

「……ありがとうございます」


 優しくて、甘やかすような声が落ちてくる。

 落ち着くような、ドキドキが止まらないような、不思議な感覚。いまだけは許して欲しいと願いながら、ヴィクトル様の背に両手を回した。指先が緊張に震えてしまっている事には、気付かない振りをして。


 ヴィクトル様は咎めなかった。

 きつく抱き締めて、わたしが落ち着くのを待っていてくれているようだった。


 ***


 翌日、父から手紙が届いた。


 家に帰ってくるようにと、わたしを呼びだす手紙だった。

 わたしを呼び戻す理由なんて、叱責以外にないだろう。エドラは研究所でのやりとりを父に報告したらしい。


 ヴィクトル様に相談すると、研究所の所長名で断りを入れてくれるそうだ。所長といえばスティーグ殿下で、殿下の名で断るのなら父もそれ以上強くは言えないだろう。


 そう思っていたのに、また次の日に手紙が届いた。いつもよりも厚みのある封筒を開けると、父からの手紙だけでなく母からのものも入っていた。

 どちらもわたしに対する文句と責め立てる言葉。わたしはエドラを泣かせた悪い姉らしい。


 父の手紙には【従わないのなら伯爵家から抜いてやる】と脅迫のような言葉もある。

 それでもいい。そう思えたのは……もう家族に期待をする事をやめたから。


 わたしは自室で、火の入っていない暖炉にその手紙を放り投げた。

 机の引き出しを開けて、今までずっと取っておいた手紙を撮りだす。アンジェリカ・ブランシュという宛名を指でなぞってから、手紙の束も全部暖炉に投げ捨てた。


 火の魔法を起動させて、手紙を燃やす。

 もうアンジェリカ・ブランシュという宛名に縋らない。そう思えたのは、自分を大切にする事を知れたから。


 だからもう、大丈夫。

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