35.精霊
ヴィクトル様とスティーグ殿下のおかげか、伯爵家からの手紙が届く事は無くなった。
王命を受けている事もあって、わたしの結婚は王家で止めてくれる事になっているそうだ。それを聞いてひどく安心した。知らぬ間に誰かの妻になっているような事態に陥らなくて済む。
ラウリス先輩からの接触もなく、わたしは落ち着いて古代魔法の構築に励む事が出来ていた。
いつも通りの変わらない日々。
ヴィクトル様の美味しいご飯も変わらない。好きなものが増えたから、毎日のご飯ももっと楽しくなっている。
料理のお手伝いも、以前よりは上手になったのだ。繰り返して慣れたのと、やっぱりヴィクトル様の教え方が良いからだと思う。
***
そんな日々の終わりは、唐突に訪れた。
魔法式の完成は近づいたと思えば遠退いて、掴む事の出来ない蜃気楼をずっと追いかけているようだった。
でも、今日は何だか雰囲気が違う。
周囲が騒めく感覚に目を向けると、精霊の光が集まってきている事に気付いた。
わたしの向かいに座るヴィクトル様も驚いたように目を瞠っている。
光にしか見えなかった精霊達の姿がはっきりと見える。手の平ほどの小さなサイズの猫だった。猫の背中には六枚の虹色に光る羽が生えている。
猫達は興味深そうに丸い目を輝かせて、わたしの手元を覗き込んでいた。
精霊達の姿をはっきり見るのなんて初めてで、ひどく緊張してしまう。それと同じくらいに気持ちが高ぶっている。
わたしは精霊達を驚かせないように、ゆっくりと細い息を吐き出した。
ペンをしっかりと握り直し、魔法式を紡いでいく。精霊の丸い手がちょっかいをかけてくるかのように、ペンに触れてくるから手が止まりそうになってしまうけれど。
最後まで魔法式を書き上げて、魔力を流す。
うまくいく予感があった。精霊達がやってきたのは、そういう事だろう。精霊王を目覚めさせるための魔法が完成するというのを、感じ取っていたのだ。
魔力に応じて宙に魔法陣が浮かび上がる。
精霊達の羽根と同じ虹色の光。呼応するように精霊達がにゃーと鳴いた。虹色の光がより強くなる。
きらきらと虹色の粒子がわたしの手元に降り注ぐ。
光はわたしの左手の甲に降り積もり、泡のように弾けて消えた。
それと同時に宙に描かれた魔法陣も一際強い光を放ってから、余韻を残して消えてしまった。
静寂が訪れる。
精霊達もその姿を消してしまっているけれど、わたしの手の甲には女神の文様が刻まれていた。手を動かすと、見る角度によって光の色が変わっていく。精霊の羽根のような色をしていた。
描いていた魔法式も同じ虹色に染まっている。
「アンジェリカ……」
「完成、しました。ヴィクトル様、精霊を見ましたか?」
「ああ、見た。あんなにもはっきりとした姿で見るのは初めてだったが……。その手は? 痛くないのか?」
「は、はい。大丈夫です」
立ち上がったヴィクトル様が机を迂回してわたしの元にやってくる。
わたしの前に跪いたヴィクトル様は、わたしの左手を取ってそっと文様を指でなぞった。
「……祝福の文様だな。女神様が見ていて下さったんだ」
優しい声に、胸の奥が熱くなる。
女神様の祝福。わたしがやってきた事を、女神様は見ていて下さった。そして魔法の完成を祝って下さったのだ。
胸に宿った熱は全身を駆け巡り、涙となって零れ落ちた。
「ありがとう、アンジェリカ。女神様の願いを叶えてくれて。これで精霊王が目覚めるよ」
「いえ……ヴィクトル様が手伝って下さったおかげです」
そう口にするとヴィクトル様が笑みを深める。わたしを甘やかす時の、お砂糖みたいにひどく柔らかい笑みだった。
「アンジェリカ、君は本当に凄いよ。そんな君の側に居られて俺も誇らしく思う。まずスティーグ殿下に報告しなくてはいけないんだが……今は君をとびきり甘やかしたい気分だ」
嬉しそうに笑ったヴィクトル様がわたしの体を抱き上げる。背の高いヴィクトル様よりも視線が高くなるのは不思議な感じだ。
機嫌よさげにくるくると回るヴィクトル様の様子に、わたしは笑みを零していた。落ちたくないからヴィクトル様の肩に手を添える。
近いこの距離に心が浮かれてしまうけれど、今だけだから許して欲しいと思う。
「ふふ、いけません。スティーグ殿下も心待ちにしているでしょう」
「仕方ない、一言だけ伝えておくか」
ヴィクトル様はわたしを抱き上げたままで、イヤーカフに魔力を流す。魔石がちかちかと点滅したかと思えば、殿下と通信が繋がったらしい。
「スティーグ殿下、ヴィクトルです。アンジェリカが魔法を完成させました。……大丈夫です? 落ち着いて下さい。発動条件? いえ、まだ確認できていなくて。……はい、分かりました。それってアンジェリカを甘やかしてからでもいいですか? はは、分かってますよ。ではまた後で」
楽しそうに笑うヴィクトル様だけど、その話の内容に苦笑いが漏れる。
こんな軽いやり取りになるとは、殿下も思っていなかった事だろう。
通信を切ったヴィクトル様は、まだわたしを下ろしてくれる気はないらしい。少し落ち着きを取り戻したわたしとしては、そろそろ地面に足をつけたい。顔に熱が集まってきているのが分かるもの。
「ヴィクトル様、あの……」
「ん?」
お願いだから、そんなに優しい顔で見ないで欲しい。大事にされていると勘違いをしてしまいそうなる。
胸の奥がぎゅっと軋む事を微笑みに隠した。その青い瞳を真っ直ぐに見つめる事は出来なかったけれど。
「殿下に確認していただいてからになりますが、この仕事が終了したらわたしは寮に戻りたいと思います」
「……寮に」
「はい。この仕事の為に、ヴィクトル様のお屋敷でお世話になっていましたから。本当にありがとうございました。お部屋から持ち出すものはほとんど──」
「まだ君を屋敷からは出さない」
きっぱりと紡がれる言葉に目を瞬いた。
ヴィクトル様はわたしを片手で抱き上げたまま、逆手でわたしの頬に触れる。顔を固定されて、ヴィクトル様と視線を重ねる以外に出来なかった。
「儀式もこれからだし、諸々が片付くまでは君を屋敷から出したくないんだ」
確かに、ここを出たらもう庇護から外れるのと同じだ。
結婚の話も進められてしまうかもしれない。
「それに、俺もまだ君を帰したくない」
頬に触れる手の指先が肌を撫でる。
甘やかすみたいな声でそんな事を囁かれて、わたしの顔が一気に赤くなったのが分かった。
「……もう少し、お世話になります」
小さな声で言葉を紡ぐと、満足そうにヴィクトル様が低く笑った。
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