36.欲しいもの

 魔法式が完成した翌日、わたしとヴィクトル様は王城にあるスティーグ殿下の執務室へやってきていた。


 王城に招かれたのだから、白衣を着ていくのはやめた。いつもの制服姿で、髪はヴィクトル様が可愛らしく纏めて下さった。

 ヴィクトル様も秘書官の制服姿で、それはきっと制服姿のわたしに合わせて下さったんだろうと思う。


 人払いがされた執務室で、わたしはスティーグ殿下と向かい合うようにソファーに座っていた。間にあるテーブルにはヴィクトル様の淹れて下さった紅茶がある。

 そのヴィクトル様は、一人掛けのソファーに腰を落ち着けていた。


「これが、魔法式か。……精霊の祝福があるな」


 わたしがテーブルの上に置いた紙を手に取って、スティーグ殿下が小さく呟く。

 その虹色の光は精霊の祝福を受けているからなのだろうか。


「殿下は精霊術士なんだ」


 小さな声でヴィクトル様が教えてくれる。

 精霊術士は魔術士とはまた違う魔法使いだ。深く精霊に愛されて、繋がりも深く、精霊術士にしか扱えない魔法もある。殿下が精霊術士なら、魔法式に残る力もよく分かるのだろう。


 そういえば魔法式に精霊が触れていた。魔法式を起動させた時には鳴き声もあげていた。それは精霊の祝福だったのかもしれない。


「精霊の姿を見たか?」

「はい。あの……可愛らしい猫の姿をしていました」

「ヴィクトルも?」

「はっきりと見ました」

「二人とも精霊との縁が出来たな。これからは以前よりも精霊の力を借りやすくなるだろう」


 スティーグ殿下が仰るなら、そうなのだろう。

 実感はないけれど、これからもまたあの姿を見られるなら嬉しいと思ってしまう。


「魔法式はもう発動できるのか?」

「はい。発動する為に必要な魔力も計算してあります。王宮魔術師の方々、もしくは精霊術士の方々に協力して貰えれば問題ないかと」


 スティーグ殿下が魔法式を指でなぞりながら問うてくる。わたしはそれに答えてから紅茶のカップを手に取った。漂う花の香りを楽しんでから一口飲む。

 お砂糖を落としてくれていたみたいで、ほんのり甘い。美味しいと感じたら緊張が解けていくような、優しい甘さだった。


「儀式の日は教皇と相談して、良き日を選ぶ事になるだろう。その儀式にはアンジェリカ嬢も同席してくれるな?」

「お邪魔でなければ、喜んで」

「一番の功労者だ。君が出ない理由はないだろう。……アンジェリカ嬢」


 居住まいを正したスティーグ殿下が、いつもよりもかしこまってわたしの名前を呼ぶ。

 わたしもカップをソーサーに戻してから、姿勢を正してそれに応えた。


「解読も、魔法式の構築も、君以外では成しえる事が出来なかっただろう。本当に感謝している。ありがとう」


 そう言葉を紡いだスティーグ殿下が深く頭を下げる。

 同じようにヴィクトル様も頭を下げるものだから、わたしはどうしていいか分からなかった。

 でも、嬉しい。わたしのした事を喜んで、感謝してくれる人がいる。

 それが嬉しかった。


「こちらこそ、ありがとうございます。こんな大役をわたしに任せて下さった事も、信じて待っていて下さった事にも感謝しているのです」


 わたしの言葉に二人はゆっくりと顔を上げる。ヴィクトル様はとても甘やかな笑みを浮かべているし、いつもは表情の動かないスティーグ殿下の口も少し綻んでいるように見えた。


「君の名は女神光教の歴史に残るだろうな」

「畏れ多い事です……」

「その左手にある女神の祝福からも、女神が魔法の完成を喜んでいるのが分かる。この長い歴史の中でも、女神の祝福を受けられた者は多くない。女神光教が欲しがるな」

「えっ」


 わたしは思わず左手の甲を右手で覆い隠した。

 有難いものだと思ってはいたけれど、そんなにも尊いものだと思わなかった。わたしの様子にヴィクトル様が肩を揺らす。


「大丈夫。アンジェリカは奪われないようにするから安心しなさい」

「はい……」

「アンジェリカ嬢程の研究者を易々手放すわけにはいかんからな」

「女神様からの、この祝福なんですが……どういった意味があるのでしょう」


 薄くだけどしっかりと刻まれた文様を指でなぞる。

 消えないようなら手袋をつけないといけないな。そんな事を考えていた。


「古い記録しかないのだが、それは女神が気に入った者に送る印だ。時代によっては【女神のいとし子】なんて呼ばれる事もあるな。女神はこの世界に直接干渉する事はない故に、今までにはっきりとした恩恵はなく、精霊との親和性が上がるといったくらいか」

「精霊王が目覚め、女神がこの世界に顕現したら……その限りじゃないって事ですよね?」


 ヴィクトル様は難しい顔をしながら、そう問いかけた。スティーグ殿下は深く頷き、背凭れに体を預けて長い足を組む。


「そうなるな。女神が顕現してからでないと分からん事の方が多い」

「……女神光教に渡したりしないで下さいよ?」

「奪われないようにするんだろう?」


 揶揄うような響きを持ったスティーグ殿下の言葉に、ヴィクトル様は苦々し気に眉を寄せた。

 わたしはそれに口を挟めず、また紅茶のカップを口に運んだ。冷めて飲みやすくなった紅茶を飲み干して、小さく息を吐く。


「アンジェリカ嬢、君には褒賞が送られる。何がいいか考えておいてくれ」

「は、はい。ありがとうございます」


 褒賞。そういえばそんな話を最初にされていた。

 何を頂くのがいいのだろう。


 思い浮かばずに困っていると、ヴィクトル様が笑ったのが分かった。


「思い浮かばないって顔をしてるな」

「そう、ですね……ちょっと難しいです」

「急かしたくはないが、儀式が始まる前には決めて欲しい。儀式の日取りは決まり次第すぐに連絡するが」


 スティーグ殿下が猶予を下さるけれど、きっとそれは長い時間ではなさそうだ。

 しっかりと考えて、決めなければならない。



 スティーグ殿下への報告も終わり、わたしとヴィクトル様は並んで王宮の廊下を歩いていた。

 廊下の窓から差し込む光が、わたし達の影を長く伸ばす。穏やかな午後の昼下がり。


「欲しいものはないか?」


 問い掛けは優しい声だった。いつもお屋敷で聞いているような、お砂糖みたいな優しい声。

 だから、正直……わたしの気が抜けていたのだと思う。


「欲しいもの……。ヴィクトル様のご飯が食べたいです」

「そうじゃなくて、褒賞の話だったんだが」


 やらかしてしまった。

 勘違いに顔が赤くなっているのが分かる。恥ずかしくて堪らずに、わたしは足元へと視線を逃がした。


 そんなわたしの顔を覗き込むように、ヴィクトル様が身を屈める。近い距離でわたしを見つめる青い瞳は穏やかに凪いでいた。


「美味いもん作るか」


 そう笑ってくれるから、わたしは……ヴィクトル様の事が好きだと実感するばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る